「フィリベルト2世・ディ・サヴォイア」の版間の差分

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幼少時はフランスの[[アンヌ・ド・ボージュー]](後の摂政)の下で教育を受ける。
1501年12月2日、神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の長女[[マルグリット・ドートリッシュ|マルゲリータ]]と結婚。彼自身は政治にあまり関心がなかったが、マルゲリータが政治に介入し暴政を行っていたフィリベルトの義兄[[ルネ・バタール]](「バタール」は私生児の意)を法的根拠に基づいて即刻解任し国外追放した。そして小規模ながらも国の経済を回復させ、サヴォイア公国を苦境から救った。夫婦仲は極めて良かったが、結婚3年目の1504年フィリベルトは狩猟大会の折りに飲んだ生水にあたり死亡した。マルゲリータは以後独身を貫いた。
 
 
彼はマルゲリータが建設させたブール・カン・ブレスの霊廟に埋葬された。