「内藤信正」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Cprobot (会話 | 投稿記録)
m cprobot: subst Template:生没年
編集の要約なし
10行目:
{{武士/藩|近江長浜藩→摂津高槻藩→山城伏見藩}}
{{武士/氏族|[[内藤氏]]}}
{{武士/父母|父:[[内藤信成]]  母:[[粟生長勝]]の娘}}
{{武士/兄弟|'''内藤信正'''、[[内藤信広]]}}
{{武士/妻|[[石川康通]]の娘}}
{{武士/子|[[内藤信照|信照]](長男)、[[内藤信武|信武]](次男)<br />[[内藤信之 (伊豆守)|信之]](三男)、[[内藤信直|信直]](四男)、<br />娘(金森重次室娘(水無瀬氏信室、<br />娘(内藤信義室娘([[堀親昌]]室、<br />娘([[植村泰朝]]室、ほか}}
{{武士/終了}}
 
21行目:
[[天正]]12年([[1584年]])16才で[[小牧・長久手の戦い]]に参加、その功を[[徳川家康]]に賞せられる(「寛永諸家系図伝」)。天正14年([[1586年]])には19歳で[[大番頭]]となり、同18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]、19年の[[九戸政実]]討伐などに従軍した。
 
[[文禄]]4年([[1595年]])従五位下・紀伊守となり、また家督を継いで[[長浜城]]に住した(※)。[[慶長]]20年([[1615年]])の[[大坂の陣]]では[[尼崎城]]の守備にあたり、同年閏6月采地をあらためて摂津国に移封され、[[高槻城]]を居所とした。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])1万石の加増を受けて[[伏見城]]代となり、あわせて5万石を領した。同5年から[[大坂城代]]を務める。寛永2年(1625年)知行を近江・山城・紀伊に移され、翌3年[[大坂城]]において死去した。享年59(以上「[[寛政重修諸家譜]]」)。
 
*※家督継承につき「諸侯年表」では慶長17年説を記すが、典拠とされている「藩翰譜」には所見がない。「寛政重修諸家譜」には「某年」とのみ記されている。
29行目:
*[[内藤信照]]
*丹後守「[[内藤信武|信武]]」
*伊豆守「[[内藤信之 (伊豆守)|信之]]
*金森甲斐守重次の妻
*水無瀬「中納言」氏信の室
*家臣・内藤新五左衛門信義の妻
*堀美作守親昌の室
*玄蕃「[[内藤信直|信直]]」。その子源七郎「[[内藤信有|信有]]」は信照の三男「[[内藤信全|信全]]」の養子として分家を継ぐ。
*植村帯刀康朝の妻
*左近「某」。「内藤家譜」(国立公文書館蔵)では早世と記されている。