「内藤信興」の版間の差分

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{{武士/時代|[[江戸時代]]中期}}
{{武士/生誕|[[享保]]5年([[1720年]])}}
{{武士/死没|[[安永]]9年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]([[1780年]][[6月7日]]))}}
{{武士/別名|孫三郎}}
{{武士/戒名|瑞龍院惇誉興仁道温}}
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{{武士/父母|父:[[内藤信輝]]、母:不明}}
{{武士/妻|[[奥平昌成]]の娘}}
{{武士/子|'''[[内藤信旭|信旭]]'''、[[内藤信凭|信凭]]、[[内藤頼尚|頼尚]]、<br />娘([[阿部正賀]]娘([[松平直行]]継室)、<br />娘([[内藤学文]]正ほか}}
{{武士/終了}}
 
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[[宝暦]]11年([[1761年]])5月25日、子の[[内藤信旭]]に家督を譲って隠居し、のち[[明和]]1年閏12月28日([[1765年]]2月17日)に大膳亮と改めた。また同8年8月3日、剃髪して「昌山」と号したという(以上「[[寛政譜]]」新訂13巻203頁および『新編 藩翰譜』2巻所載系図、128頁)。
 
安永9年(1780年)5月5日、江戸で死去。[[享年]]61。葬地は[[小石川]]の無量院(廃寺)。現在、墓所は[[新潟県]][[村上市]]の天徳寺に移されている。
 
『村上郷土史』107頁には「表入用之儀追々相滞 甚差支候」「公務にも可相障 安心無之候」と、逼迫する江戸での財政状況を伝える書状が掲載されている(年次不明。同書では元文5年と推定)。
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== 子女 ==
「寛政譜」記載の子女は次の四男六女である。「越後村上 内藤家譜」からの記述を付加し、また『村上郷土史』所載系図の記述をカッコ書きにした。
*次代:[[内藤信旭]]
*女子:早世(「カナ」[[延享]]3年2月生まれ。母は側室。同月卒)
*[[内藤信凭]]
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== 特記事項 ==
 
*生没年および享年は「寛政譜」および「藩翰譜続編」(『新編 藩翰譜』2巻104、105頁が続編部分である)の記述に拠った。いずれも安永9年5月5日に61才で卒とし、従って享保5年生まれとなる。「寛政譜」は生年を明記している。
*『村上郷土史』では享保8年3月21日生、安永9年5月5日卒、享年58才(80頁)もしくは享保6年生、安永9年に60才で卒したとする(103および116頁)。