「吉良義安」の版間の差分
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しかし天文18年([[1549年]])駿河の戦国大名[[今川義元]]が尾張の戦国大名[[織田信広]]を攻めた際、義安は織田家に協力したため、今川軍に捕らえられてしまい、人質として駿府へ送られるはめとなった。またこの際今川義元は西条吉良氏の[[吉良義昭]]に東条吉良氏も継がせ、吉良氏を統一させて今川家配下に組み込んでいる。
義安は、以降10年余りを駿府で人質として暮らすことになったが、このときに同じく[[今川義元]]の人質となっていた松平竹千代(のちの[[徳川家康]])と親しくなり、[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])に家康が元服した際には理髪役も務めた。[[永禄]]3年([[1560年]])6月の[[桶狭間の戦い]]で[[今川義元]]が死去したため、この際に家康とともに人質から解放されて[[三河国]]に戻った。[[永禄]]5年([[1562年]])には今川氏の後援を失って三河で孤立化していた弟[[吉良義昭]]が、地元の一向宗を味方につけて[[徳川家康]]と戦ったが(
[[Category:吉良氏|よしやす]]
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