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==経歴==
===出自===
曹州離狐([[山東省]])の人。富家の出身で、[[隋]]末の混乱に伴い、近くで[[タク讓|翟譲]]が蜂起したので、17歳の徐世勣はこれに従って反乱軍に身を投じた。徐世勣は年少にもかかわらず、翟譲よりも才能を発揮し、翟譲軍は徐世勣の主導によって動くようになる。
 
その頃、[[李密 (隋)|李密]]が[[王世充]]に敗れて逃げてきたので、これを迎え入れて翟譲に代わる首領として李密を押したてる。王世充の軍を奇計を用いて破り、この功績をもって李密より東海郡公とされる。また李密に対して隋の穀倉を奪って飢えた民を集めることを進言して受け入れられ、[[宇文化及]]の軍がこの食料を求めて攻撃してきたのでこれを撃退した。しかし[[619年]]に李密軍は王世充に大敗し、西で大興城([[長安]])を陥落させていた[[高祖 (唐)|李淵]]に李密と共に降った。徐世勣を迎えた李淵はこれを大いに喜び、徐世勣を「純臣なり」と称揚し、李密の元から自らの直臣として迎え入れ、国姓の李を与えた。以後は李世勣となる。以後は唐の元で統一戦にて李淵の次子・李世民(後の太宗)の軍の中核として活躍し、[[竇建徳]]・王世充討伐に功績を挙げた。李世民が即位すると名前を李勣と改め、并州[[都督]]とされる
 
しかし[[619年]]に李密軍は王世充に大敗し、西で大興城([[長安]])を陥落させていた[[高祖 (唐)|李淵]]に李密と共に降った。徐世勣を迎えた李淵はこれを大いに喜び、徐世勣を「純臣なり」と称揚し、李密の元から自らの直臣として、国姓の李を与えた。以後は李世勣となる。
 
以後は唐の元で統一戦にて李淵の次子・李世民(後の太宗)の軍の中核として活躍し、[[竇建徳]]・王世充討伐に功績を挙げた。李世民が即位すると名前を李勣と改め、并州[[都督]]とされる。
 
===左遷===
しかし太宗も晩年になると、[[皇太子]]李治([[高宗 (唐)|高宗]])に対して李勣が忠誠を誓ってくれるかどうかが心配になり、ある策謀を行った。それは李勣を畳州都督へと左遷することであった。太宗は李治に対して「もし李勣が左遷されて、任地へ行くことを渋るようであれば即座に殺せ。もし任地へと素直に赴くようであれば、お前が即位した後に呼び戻してやれ。そうすればそれを恩に感じてお前に対して忠誠を尽くしてくれるだろう。」と言い残して、死去した。李勣も太宗の思惑を察知していたので、この詔勅が出た後に家にも帰らずにその足で任地へと赴いた。
 
李勣も太宗の思惑を察知していたので、この詔勅が出た後に家にも帰らずにその足で任地へと赴いた。
 
李治が即位して高宗になるとすぐに李勣は呼び戻されて中書門下三品(宰相)とされ、一躍朝廷の重鎮のひとりとなる。
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