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[[Image:Europe1815 1905.jpg|right|300px|thumb|ウィーン体制下(1815年)のヨーロッパ]]
'''ウィーン体制'''(ウィーンたいせい, Vienna system, Vienna Settlement)は、[[ウィーン会議]](1814-1815年)以後の[[ヨーロッパ]]の国際秩序である。[[クリミア戦争]](1853-1856年)によって完全に崩壊するまで続いた国際的[[反動]]体制であった。
 
ウィーン会議で[[フランス]]外相[[シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン=ペリゴール]]の主張した[[正統主義]]を基に、[[フランス革命]]以前の状態を復活させ、[[大国]]の[[勢力均衡]]を図った。[[神聖同盟]](四国同盟)らの列強を中心に、[[自由主義]]・[[国民主義]]運動を抑圧した。一方で、その基本理念はヨーロッパの協調にあり、国家間の諸問題の解決に外交努力を惜しまなかったことから歴史的にみても比較的長期(見方によっては[[第一次世界大戦]]まで)の安定をヨーロッパにもたらした。