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'''成田 長泰'''(なりた ながやす、[[明応]]4年[[1495年]])? - [[天正]]元年[[12月17日_(旧暦)|12月17日]]([[1574年]][[1月9日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[成田親泰]]の子で、[[小田朝興]]、[[成田泰季]]の兄。[[成田氏長]]と[[成田長忠]]の父に当たる。[[正室]]は[[長尾景英]]の娘。[[号]]は芦伯斎。下総守。
 
[[武蔵国]][[忍城]]を領していた。[[成田氏]]は代々山内上杉氏の被官を務めていたため、はじめ[[関東管領]]・[[上杉憲政]]に仕えたが、主家が衰えるのを見て後北条氏に寝返った。その後関東管領に就任した[[上杉謙信]]が関東に進出するとその配下になる。しかし、[[1560年]]に謙信が[[小田原城]]を包囲した後、[[北条氏康]]に降伏し、その家臣となった。一説には謙信に恥をかかされたことから謙信を恨んだためとも言われる。
 
[[1563年]]、謙信に忍城を攻められて降伏して隠居して嫡男の氏長に家督を譲るが、後にこれを廃して家督を次男の長忠に譲ろうとしたために氏長と対立したが、弟の泰季らの反対に遭い結局、これを断念して引退した。79歳で死去したという。
 
== 関連項目 ==
*[[成田氏]]
 
[[Category:成田氏|なかやす]]