「色部久長」の版間の差分

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'''色部 久長'''(いろべ ひさなが、[[1825年]]([[文政]]8年) - [[1868年]]([[慶応]]4年)[[7月29日 (旧暦)]])は、[[米沢藩]]の[[家老]]。[[受領名]]が[[信濃国|信濃]][[国司|守]]であったことから'''色部 長門'''の名で知られている。幕末期に[[奥羽越列藩同盟]]に列した米沢藩より、旧幕府の直轄領であった越後府で港のある新潟町(現在の[[新潟市]])を警備する為に総督に命じられ、奮戦し功績を残した。
 
1868年(慶応4年)に[[鳥羽・伏見の戦い]]を端に発した[[戊辰戦争]]をきっかけに、新政府軍と旧幕府軍で全国各地で衝突が発生し、薩長を中心とした新政府軍が[[北陸道]]を北へ進軍する中、色部総督は藩兵を600引き連れ、現在の[[新潟県]]新潟市にある西堀の光林寺に本陣を置き、奥羽越列藩同盟にとって物資の補給に大変重要な新潟港を警備をした。しかし新政府軍による海上などからの猛攻を受け、新潟の町は焼け野原になり、これ以上の衝突によって新潟の町の被害拡大を懸念し兵の撤退を決定した。米沢藩兵が敗走する中、敗戦の責任も取るべく、自らも生きながらえる選択をせず、僅か数名の兵を引き連れ新政府軍の本拠地であった関屋へ斬り込み、奮闘するも敵の攻撃に被弾し助からないと悟り、敵に首を取られまいと新潟市の関屋下川原新田(現在の[[新潟県立新潟高等学校]]周辺)にあった茄子畑にて[[割腹]]し、部下に[[介錯]]させた。[[享年]]44
 
戦後に米沢藩は新政府軍によって藩主であった[[上杉斉憲]]は子である[[上杉茂憲|茂憲]]に[[家督]]を譲り[[隠居]]、4万石を召し上げられる処罰を受け、新政府軍より一連の戦犯について調査を命じられ、苦慮した結果、既に新潟の地で死亡している家老の色部を戦犯として届出をしそれが認められ、奥羽諸藩では戦犯者が処刑される中、米沢藩では色部のお陰で処刑される者を出さずに済み、色部家は家名断絶されたが、明治16年に許されたという。
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