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'''ルイ・ブラン'''(Louis Blanc,[[1811年]]~[[1882年]])は、[[フランス第二共和政]]期の社会主義者の政治家、歴史家。[[二月革命]]後に臨時政府に入り、労働時間の短縮をおこない国立作業所を設立した。しかし1849年年4月の選挙で落選(農民たちは、やっと手に入った土地を平等を旨とする社会主義派によって、再び失うことを恐れルイ・ブランを支持しなかった)。これによって臨時政府は国立作業所の廃止を決定。パリ民衆が武装蜂起を起こして鎮圧されるとイギリスに亡命した
 
== 生涯 ==
マドリードで生まれ、急進的な社会主義ジャーナリストになり、不合理な競争をなくし、労働者を保護するための国家による生産の統制(国が工場を経営すれば、競争に巻き込まれることもなく、労働者を搾取する必要がなくなるから)を考えるようになった。
 
1841年に7月王政の腐敗ぶりを描いた記事を書いたことで、[[二月革命]]に大きな役割を果たした。革命後は2名の労働者代表のひとりとして臨時政府に入り、中心になって10時間労働制を制定して労働時間の短縮をおこない、自らの思想にもとづき国立作業所を設立した。しかし共和派と急進派との板挟みになって、どちらからも信用されずに居心地の悪い思いをした。そして1849年年4月の選挙で落選(農民たちは、やっと手に入った土地を平等を旨とする社会主義派によって、再び失うことを恐れルイ・ブランを支持しなかった)。
 
6月には政府の中で完全に孤立し臨時政府は国立作業所の廃止を決定。これにたいしてパリ民衆が武装蜂起を起こした。臨時政府は、軍隊を出動させて、徹底的にこれを鎮圧。10時間労働制も廃止されてルイ・ブランは1871年までイギリスに亡命した。やがて急進的な傾向を抑えて、単に社会プログラムと所得の再分配のみの国の関与を主張するだけになった。そのため1870年の[[パリ・コミューン]]支持を拒否した。1882年、カンヌで死去。
 
== 外部リンク ==
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