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'''アンリ・ラボー'''('''Henri Rabaud''', [[1873年]][[11月10日]] [[パリ]] - [[1949年]][[9月11日]] [[ヌイイ]])は[[フランス]]の[[作曲家]]・音楽教育者。[[チェロ]]教師の父と声楽家の母をもち、他の一族も錚々たる顔ぶれの音楽家であった。[[パリ音楽院]]で楽理をアンドレ・ジェダルジュに、[[作曲]]を[[ジュール・マスネ]]に師事。[[1920年]]に[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]勇退後の[[パリ音楽院]]院長に就任。[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の流れを汲む保守的な作曲家で、「[[モダニズム]]は敵なり」というモットーを掲げていたことで知られる。[[指揮者]]としても名を残し、パリ・[[オペラ座]]や[[ボストン交響楽団]]で活躍した。
 
創造的な音楽家としては、フォーレの4手のためのピアノ組曲《[[ドリー (フォーレ)|ドリー]]》を管弦楽用に編曲したことで名を残しているにすぎないが、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]や[[フランツ・リスト|リスト]]の和声法をとりいれたいくつかの繊細な[[交響詩]](《ヴェルギリウスの詩による「牧歌」''Eglogue''》、《「ファウスト」による夜の行列 ''Procession nocturne''》)は、美しさゆえに再評価されてよい。ほかに、[[16世紀]][[イングランド]]の[[ヴァージナル]]楽派の作品に基づく《管弦楽のためのイギリス組曲》や、《ロシア民謡による[[ディヴェルティメント]]》といった、古い時代や異国の主題による編曲や[[変奏曲]]がある。[[オペラ]]《マルーフ、カイロの靴屋 ''Mârouf, savetier du Caire''》は、当時流行の[[オリエンタリズム]]に便乗し、一時的に成功した作品であるが、同時代のより進歩的な作品([[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の《火の鳥》や[[ポール・デュカス|デュカス]]の《ラ・ペリ》など)にくらべると、明らかに発想は安易で、表現は皮相である。
 
アイルランドの詩人[[ジョン・ミリントン・シング]]の戯曲『海に騎(の)りゆく人々 ''Riders to the Sea''』や、[[1925年]]の映画「棋士 ''Joueur d'échecs''」に[[付随音楽]]を提供した。