「バッティスタ・ファリーナ」の版間の差分

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[[1930年]]、ジョバンニのボディショップを離れ、自分の愛称をとり、カロッツェリア・ピニンファリーナ社を設立。主に特別な自動車のボディを製作。手製の技能を超え、従業員が増えるに従い、1日7~8台のボディ製造ラインを確立させる。[[第二次世界大戦]]前、次々と革命的なデザインのボディを生産。外国の自動車メーカー向けの会社を設立するも、第二次世界大戦が始まり一時中断。
 
[[1952年]]ピニンファリーナとして初めてデザインしたフェラーリである212インテルを発表。当時バッティスタはトリノにエンツォを呼び寄せたかったが[[エンツォ・フェラーリ]]はマラネロを出ることを疎んだ。このため息子のセルジオはトリノとマラネロの中間のトルトナの町での会合を提案した。そして二人は意気投合し、現在も続く[[フェラーリ]]との蜜月の関係の始まりとなった。
 
戦後直後から、多くの自動車メーカーのデザイン、ボディ生産を手がけ、遂に[[1958年]]、最も近代的な巨大プラントを設立。