「河野洋平」の版間の差分

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== 人物概要 ==
いわゆる "媚中派" の代表的な政治家で[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]第16代総裁、[[大勇会]](旧河野派)会長、[[日本陸上競技連盟]]会長、元[[新自由クラブ]]代表。[[内閣官房長官]]や[[外務大臣]]を歴任し、[[2003年]][[11月19日]]より[[衆議院議長]]。父は[[河野一郎]]。自民党衆院議員・[[河野太郎]]は長男。
 
[[1955年]][[早稲田大学高等学院]]、[[1959年]][[早稲田大学]][[政治経済学部]]経済学科卒業。同年丸紅飯田に入社。[[1967年]]、亡き父の地盤を継承して自民党公認で初出馬、トップ当選を果たす。若手時代は「プリンス」と呼ばれ、勉強会「政治工学研究所」(政工研)を主宰、超派閥的に党内左派の中堅・若手議員を従える立場にあった。[[1974年]]の[[田中角栄]]内閣の[[内閣総辞職]]に伴う後継の総理・総裁選出に際しては、公選が行われることを見越しての河野擁立運動が政工研を中心に展開された。しかし、話し合いによる後継者決定が当時の実力者の間で既定路線となっていたこともあり、擁立運動は頓挫した。
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*[[外務大臣]]在任中、旧[[日本軍]]の毒ガス弾の処理において、旧日本軍が武装解除後に中国側に引き渡したものや、ソ連軍のものなど元々旧日本軍と関係のないものまで含めて、日本の責任で処理する取り決めを交わした。その結果、日本政府は、数兆円といわれる莫大な処理費用を負担することになった。
*[[1995年]]に[[バンコク]]で行われた[[東南アジア諸国連合]]([[ASEAN]])外相会議に出席の途上、乗っていた飛行機が悪天候のため[[台湾]]に緊急着陸した際に、台湾の地を一歩も踏まなかったことを、日中友好の証として中国の外相・[[銭其琛]](当時)に報告した。そこまでして中国に媚を売る政治的姿勢は、[[江沢民]]の傭兵"江の傭兵"と言われる所以でもある
*[[2000年]]、外務大臣として[[北朝鮮]]への50万トン(この50万トンという量は、[[国連]]の[[世界食糧計画]]が要請した19万5000トンの要請を遙かに上回る援助で、金額にして1200億円)のコメ支援を決定した。「自分が全責任を取る」と見得を切ったが、供与したコメの一部が軍の備蓄に回されたなどと批判されている。
*[[2001年]]の台湾の[[李登輝]]訪日問題での対応。自らの外務大臣辞任をほのめかしてまで入国[[査証|ビザ]]発行に反対した。ただし辞任には至らず。
*[[2006年]][[8月15日]][[全国戦没者追悼式]]の[[衆議院議長]]追悼の辞で「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」と異例の[[戦争責任]]論に言及した。