「ルートヴィヒ3世 (バイエルン王)」の版間の差分

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'''ルートヴィヒ3世'''('''Ludwig III. Leopold Joseph Maria Aloys Alfred''', [[1845年]][[1月7日]] - [[1921年]][[10月18日]])は[[バイエルン王国]]最後の[[国王]]。[[第一次世界大戦]]後の[[ドイツ革命]]により退位した。
 
ルートヴィヒは[[ミュンヘン]]でバイエルン王子ルイトポルト([[ルートヴィヒ1世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ1世]]の三男)と[[トスカーナ大公国|トスカーナ]]大公女アウグスタの間に生まれた。[[1868年]]2月20日、彼は[[ウィーン]]で[[モデナ]]公家([[ハプスブルク家]])の[[マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ=エステ (1849-1919)|マリア・テレジア]]と結婚した。マリア・テレジアは叔父モデナ公[[フランチェスコ5世 (モデナ公)|フランチェスコ5世]]の死によって、[[1875年]]に[[ジャコバイト]]が支持するところのイギリス王位を得ていたため、まれに''[[イングランド]]女王メアリー3世''などと呼称される場合もある。
 
一方、ルートヴィヒの方は父の死により、[[1912年]]にバイエルン王国の[[摂政]]の地位についている。当時の国王[[オットー1世 (バイエルン王)|オットー1世]]はその兄[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]と同様に精神を病んでいたとされている。翌年改正された憲法の規定にのっとり、ルートヴィヒはオットーを廃位し、議会の承認を得て自身がバイエルン王国の国王の座についた。
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[[第一次世界大戦]]での[[ドイツ帝国|ドイツ]]の敗戦による混乱の中で、ルートヴィヒは家族とともに[[ミュンヘン]]を逃げ出し、11月13日に[[クルト・アイスナー]]が起草した退位宣言書に署名した。[[1919年]]にアイスナーが[[暗殺]]されると、混乱を嫌ったルートヴィヒは[[リヒテンシュタイン]]へ、さらには[[ハンガリー王国|ハンガリー]]へと向かい、その地で亡くなった。
 
王妃マリア・テレジアとの間には、第一次世界大戦において[[ドイツ軍]]の指揮官をつとめた皇太子[[ループレヒト (バイエルン皇太子)|ループレヒト]]を含め、13人の子供が生まれた。
 
==こぼれ話==