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アメリカの男子テニス選手、マッケンローのパートナー |
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|フルネーム(英語名)=
|愛称=
|国籍=
|出身地=同・ニュージャージー州<br />チャタム
|居住地=
|誕生日=1955年1月21日
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|体重=84kg
|利き手=右
|バックハンド=片手打ち
|デビュー年=1973年
|引退年=1988年
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|シングルス通算=216勝199敗
|ダブルス通算=509勝176敗
|全豪オープン=3回戦(1983)
|全仏オープン=2回戦(1977・80)
|ウィンブルドン=ベスト
|全米オープン=3回戦(1978)
|優勝回数=
|シングルス最高=8位
|ダブルス最高=1位
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'''ピーター・フレミング'''('''Peter Fleming''', [[1955年]][[1月21日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニュージャージー州]]チャタム出身の元男子プロ[[テニス]]選手。4歳年下の[[ジョン・マッケンロー]]と組んで数多くのダブルス・タイトルを獲得し、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]の男子ダブルスでも[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]4勝、[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]3勝を挙げた選手である。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス1位。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス3勝、ダブルス60勝を挙げたが、そのうち57勝がマッケンローとのペアで獲得したものである。身長195cm、体重84kgの長身選手。右利き。
フレミングは[[1973年]]から選手経歴を始め、[[1978年]]からダブルス選手として頭角を現し始めた。[[1978年]]にフレミングはダブルスで年間7勝を獲得するが、4月の[[モンテカルロ・マスターズ|モンテカルロ]]大会と12月の[[ヨハネスブルグ]]大会は違う選手と組んでいる。[[1979年]]からマッケンローとフレミングは黄金時代に入り、[[1979年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]と[[1979年全米オープン
ピーター・フレミングは[[1979年]]から[[1984年]]まで男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]代表選手としても活躍したが、彼の出場した試合はすべてマッケンローとのダブルス戦であった。フレミングとマッケンローのペアは、デ杯通算「14勝1敗」の成績を残している。2人は長い間アメリカ・チームの“無敗ペア”であったが、[[1984年]]12月に「ワールドグループ」決勝の対[[スウェーデン]]戦で[[ステファン・エドベリ]]&[[アンダース・ヤリード]]組に敗れ、アメリカ・チームもスウェーデンに1勝4敗で敗れた。フレミングとマッケンローは、デ杯アメリカ・チームの「ダブルス最多勝利ペア」(Best Doubles Team)として、[[1930年代]]に活躍した[[ウィルマー・アリソン]]&[[ジョン・バン・リン]]組の「14勝2敗」に並ぶ記録を残した。[http://www.daviscup.com/teams/team.asp?btnStatus=submitted&team=USA]
シングルスでのフレミングは、[[1978年]]11月に[[イタリア]]・[[ボローニャ]]大会で[[アドリアーノ・パナッタ]]を破って初優勝を果たし、[[1979年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[シンシナティ]]大会と[[ロサンゼルス]]大会で年間2勝を挙げている。4大大会の男子シングルスでは、[[1980年
フレミングは[[1987年]]のシーズンを最後にシングルスから撤退し、ダブルスでもマッケンローと離れた。彼の最後のダブルス・タイトルは、[[1987年]]7月に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ワシントンD.C.|ワシントン]]大会で[[ゲーリー・ドネリー]]と組んで獲得したものである。キャリア最後の年となった[[1988年]]は、フレミングはダブルスのみに出場した。選手引退後は、家族とともに[[イギリス]]・[[ロンドン]]に在住している。
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