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== 概要 ==
[[応永]]二十五25年([[1418年]])、下那須家初代[[那須資重]]によって築かれ、[[永正]]十一11年([[1514年]])の下那須家滅亡まで下那須家の居城、[[那須氏]]統一後は、[[那須氏]]の居城として使われた。
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[佐竹氏]]により度々攻撃対象とされ、[[永禄]]6年([[1563年]])の[[大海の戦い]]、永禄9年([[1566年]])の[[治部内山の戦い]]、永禄10年([[1567年]])の[[大崖山の戦い]]、[[霧ヶ沢の戦い]]など、何度か城下まで攻め込まれている。[[天正]]十八18年([[1590年]])、[[那須資晴]]の時、[[那須氏]]が[[改易]]され[[織田信長]]の次男・[[織田信雄]]が入城。二ヶ月間、城主を務めた。
 
[[江戸時代]]には、[[烏山藩]]の政庁となり短期間に城主が交代した。[[成田氏]]・[[松下重綱|松下氏]]・[[堀氏]]・[[板倉氏]]を経て、[[天和 (元号)|天和]]元年([[1681年]])、[[那須資祗]]が二万石で旧領復帰を果たすが、[[貞享]]四年([[1687年]])、子の[[那須資徳]]の時、改易。以後、[[永井直敬|永井氏]]・[[稲垣重富|稲垣氏]]を挟み、[[享保]]10年([[1725年]])、[[大久保常春]]の入封後は、[[大久保氏]]が城主を務め、[[明治]]2年([[1869年]])、[[版籍奉還]]と共に廃城。現在は、県立自然公園として、石垣・土塁など、各遺構が良好な形で現存している。
 
== 関連項目 ==