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''' 太郎左衛門'''('''さわ たろうざえもん'''、[[天保]]5年([[1834年]]) - [[明治]]31年([[1898年]]))は、[[幕末]]期の[[幕臣]]。名は貞説。幕臣太八郎の子。名は貞説。幼名は◆太郎(えいたろう、◆は金偏に英とも言う。[[箱館戦争]]時に成立した旧幕府軍政権([[蝦夷共和国]])開拓奉行。
 
総裁の[[榎本武揚]]とは[[安政]]2年([[1855年]])10月に設立された[[長崎海軍伝習所]]からの知り合いで、伝習所が閉鎖された後には榎本と共に[[江戸幕府]]が募った[[オランダ]]留学生に選ばれ、[[文久]]2年([[1862年]])9月に長崎を出航、欧米巡察・諸学研究などを終えて[[慶応]]3年([[1867年]])3月に帰国した。帰国した後も榎本らと行動を共にし、慶応4年([[1868年]])8月19日に榎本ら旧幕府海軍が品川沖を脱走する際には軍艦[[開陽丸]]の艦長を任された。箱館政権下([[蝦夷共和国]])では開拓奉行に選任され、オランダ留学で大砲や火薬について学んでいたは、[[火薬兵器]]や[[弾薬]]の改良に従事した。箱館戦争降伏後、牢獄生活を経て北海道[[開拓使]]として[[明治政府]]に出仕。その後は[[海軍]]の整備に尽力した。[[享年]]65。
 
[[榎本武揚]]がオランダ渡航中に著した『航海日誌』は、榎本が[[セントヘレナ島]]で海に投げ捨てようとしたところをが惜しんで預かっていたため、榎本・の死後、初めて公表されたのだと言う。
 
[[Category:幕末徳川側人物|さわ たろうえもん]]
[[Category:1834年生|さわ たろうえもん]]
[[Category:1898年没|さわ たろうえもん]]