「九州王朝説」の版間の差分

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=== 問題点 ===
九州王朝説は現在のところ、日本古代史の学界からは「批判・検証を受ける段階に無い」と見られ黙殺されている。それは以下のような理由による。
*史料批判など歴史学の基礎手続きを踏んでいない<ref>一例を挙げると、同時代史書と後代史書が矛盾する場合は、同時代史書を優先、自国史書より利害関係のない外国史書を優先という方法により立論していながら自説と矛盾する『通典』を無視している{{fact}}。また、『後漢書』の刊本が『三国志』刊本より古いことを指摘されても無視している{{fact}}。</ref>
*考古学の資料分析の成果とそぐわない<ref>考古学界では[[年輪年代学]]の成果から3世紀中葉に畿内を中心とする連合が形成されたとする見解が主流となりつつある(参照:[[白石太一郎]] 『古墳とヤマト政権』 文芸春秋、1999 ISBN 4166600362)。</ref>
*漢文の読み方が恣意的である<ref>山尾幸久 『新版 魏志倭人伝』 講談社、1986 ISBN 406148835X P62、P255~参照</ref>。
*九州王朝の歴史を記録した一次史料が存在しない<ref name="shiryou">『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説では特に根拠上記ないままように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州王朝」の史書からの盗用であり、「古代大和王朝」の文献資料など存在しないとするものもある</ref>(したがって説の論拠となる史料は、記紀や中国や韓国の歴史書等に散見される間接的な記事、九州年号や大宰府など僅かに残されたものに止まっている。この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠となっており、また多くの亜流を生む原因ともなっている<ref name="tuusetu">通説側からは九州王朝の存在を仮定して[[日本書紀]]等の既存の資料を解釈するという恣意的な資料の扱いが問題視されているが、九州王朝説からすると通説が資料の取扱が恣意的であり「通説は大和一元論であり、資料の扱いが恣意的である」としている。</ref>)。
 
また、九州王朝説の支持研究者間でも、白村江の戦いまでを九州王朝の歴史と見る、壬申の乱までを九州王朝の歴史と見る、大化の改新まで九州王朝の歴史と見る<ref name="iwai"> </ref> 等考え方は様々であり定まっていない。