「平水韻」の版間の差分

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{{音韻学}}
'''平水韻'''(へいすいいん、ひょうすいいん)は、 [[近体詩]]の[[押韻]]に使われる106韻。一般に'''詩韻'''(しいん)と呼ばれるものはこの平水韻を指す。『[[切韻]]』系の[[韻書]]を整理したもので、[[中古音]]の[[音韻]]体系を表している。上平声15韻、下平声15韻、上声29韻、去声30韻、入声17韻の計106韻。
 
平水韻という名は平水(現[[山西省]][[臨汾]])という地名にもとづくものであるが、その由来には2説あり、平水で刊行された[[金 (王朝)|金]]の王文鬱の『平水新刊礼部韻略』([[1229年]])によるというものと、『壬子新刊礼部韻略』([[1252年]]、現存せず)を著した劉淵が平水出身であったというものがある。
平水(現[[山西省]][[臨汾]])で刊行された韻書の体系にもとづくので、この名がある。宋代の官韻書である『[[広韻]]』は206韻の体系を採っていた。しかし、その系列である『[[礼部韻略]]』は、表面上206韻であったが、同用によって韻数を統合すると、実質上108韻であった。さらに同用によって上声の「迥」「拯」、去声の「径」「証」を併合して各1韻減らすと106韻になる。この韻目は金代の官韻書である王文鬱の『平水新刊礼部韻略』(1229年)、張天錫『草書韻会』、南宋の陰時夫『[[韻府群玉]]』に見られる。
 
このように旧説では南宋平水韻韻目は王文鬱の106韻あるいは劉淵『壬子新刊礼部韻略』(1252年平水刊)の107韻に基づくとされが、劉淵、王文鬱よりも古く原型となるものがあると思われる。2001年に[[敦煌]][[莫高窟]]北区の石窟から出土した唐代の古韻書『排字韻』残巻が平水韻の106韻と合致していることが明らかになった
 
平水(現[[山西省]][[臨汾]])で刊行された韻書の体系にもとづくので、この名がある。宋代の官韻書である『[[広韻]]』は206韻の体系を採っていた。しかし、その系列である簡略版の『[[礼部韻略]]』(1037年)は、表面上206韻であったが、同用によって韻数を統合すると、実質上108韻であった。さらに同用によって上声の「迥」「拯」、去声の「径」「証」を併合して各1韻減らすと106韻になる。この韻目は金官韻書である王文鬱の『平水新刊礼部韻略』(1229年)、張天錫『[[草書韻会]]南宋の陰時夫『[[韻府群玉]]』に見らでも採用さ
 
平水韻はこの後、近体詩の押韻の根拠として現在に至るまで用いられた。清代の『[[佩文韻府]]』にも平水韻が使われている。