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'''プリンスローズ'''あるいは'''プランスロゼ'''(''Prince Rose''、[[1928年]] - [[1944年]])は[[ベルギー]]の[[競走馬]]。ベルギー競馬史上最強馬にして世界的影響力を残した名馬である。父はローズプリンス、母はインドレンスで本馬は[[イギリス]]産。名前はおそらく父からの連想であろう。▼
現役時代は20戦16勝(17戦16勝とも)の成績を残し59,267ドル(米貨換算)を稼ぎ出した。ベルギーでは日本の[[有馬記念]]に当たるブリュッセル大賞を楽勝し、[[ジャパンカップ]]に当たるグランオステンド国際でもフランスの名牝[[パールキャップ]]を相手に1馬身差で勝利した。オステンド大賞も連覇している。3,4歳時はベルギー国内で無敗を誇った。▼
3歳時には[[フランス]]の[[凱旋門賞]]に遠征しパールキャップの3着に敗れたが、ちぐはぐなレースぶりで[[トウルビヨン (競走馬)|トウルビヨン]]等を押さえており、1,2着馬と実力差はなかったと言われている。翌年もう一度フランスに遠征し共和国大統領賞(現[[サンクルー大賞]])を制しついにベルギー外での勝利をものにした。そしてオステンド大賞連覇を達成したところで故障を発生し引退した。▼
[[種牡馬]]成績は当初ベルギーで供用されたためテールローズがドーヴィル大賞に勝った程度だったが、1938年にフランスに移動してからは短期間の内に[[プリンスキロ]](米名馬)、プリンスビオ([[プール・デッセ・デ・プーラン]]、仏[[リーディングサイアー]])、プリンスシュヴァリエ([[ジョッケクルブ賞]]、仏リーディングサイアー)を輩出した。1946年フランス、そしてベルギーのリーディングサイアーになっている。[[1944年]][[連合国]]の攻撃([[ノルマンディー上陸作戦]])に巻き込まれ、祖父と同じく焼死した。▼
{{競走馬血統表
|option = close
|name = プリンスローズ
|inf =
|f = Rose Prince<br />1919 鹿
|m = Indolence<br />1920 鹿
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|mmfm = Quetta
|mmmf = Right-Away
|mmmm = Barrisdale
|}}
▲'''プリンスローズ'''あるいは'''プランスロゼ'''(''Prince Rose''、[[1928年]] - [[1944年]])は[[ベルギー]]の[[競走馬]]。ベルギー競馬史上最強馬にして世界的影響
▲現役時代は20戦16勝(17戦16勝とも)の成績を残し59,267ドル(米貨換算)を稼ぎ出した。ベルギーでは日本の[[有馬記念]]に当たるブリュッセル大賞を楽勝し、[[ジャパンカップ]]に当たるグランオステンド国際でもフランスの名牝[[パールキャップ]]を相手に1馬身差で勝利した。オステンド大賞も連覇している。3,4歳時はベルギー国内で無敗を誇った。
▲3歳時には[[フランス]]の[[凱旋門賞]]に遠征しパールキャップの3着に敗れたが、ちぐはぐなレースぶりで[[トウルビヨン (競走馬)|トウルビヨン]]等を押さえており、1,2着馬と実力差はなかったと言われている。翌年もう一度フランスに遠征し共和国大統領賞(現[[サンクルー大賞]])を制しついにベルギー外での勝利をものにした。そしてオステンド大賞連覇を達成したところで故障を発生し引退した。
▲[[種牡馬]]成績は当初ベルギーで供用されたためテールローズがドーヴィル大賞に勝った程度だったが、1938年にフランスに移動してからは短期間の内に[[プリンスキロ]](米名馬)、プリンスビオ([[プール・デッセ・デ・プーラン]]、仏[[リーディングサイアー]])、プリンスシュヴァリエ([[ジョッケクルブ賞]]、仏リーディングサイアー)を輩出した。1946年フランス、そしてベルギーのリーディングサイアーになっている。[[1944年]][[連合国]]の攻撃([[ノルマンディー上陸作戦]])に巻き込まれ、祖父と同じく焼死した。
[[Category:1928年生 (競走馬)|白]]
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