「本因坊丈和」の版間の差分

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跡目
松平家碁会
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文政10年([[1827年]])40歳の時、七段に進み、元丈の跡を継いで十二世本因坊丈和となる。翌年八段。
 
==天保の内訌と松平家碁会==
[[天保]]2年([[1831年]])、[[名人 (囲碁)|名人]]碁所に就く。その際、丈和は不透明な陰謀をめぐらしたため後に禍根を残す事になった。(天保の内訌)
 
文政11年(1828年)に名人碁所願を提出し、[[安井知得仙知]]宅で家元同職会議が行われる。席上仙知は時期尚早と主張し、丈和の1月遅れで八段になっていた[[井上幻庵因碩]]との争碁を勧めるが因碩は受けず、仙知が争碁を打つことになり[[寺社奉行]]から許可を得る。しかし仙知の病気などで日程が決まらず、因碩が争碁願を提出、仙知の裁定で2、3年待って争碁を行うこととしたが、天保2年に突如名人碁所に任命される。この急な任命の理由は不明だが、[[林元美]]が丈和から八段昇段の約束を得て、出身である[[水戸藩]]の[[徳川斉昭]]を通じて寺社奉行に働きかけたとの見方もがある。
丈和の[[ライバル]]である[[井上幻庵因碩]]は丈和を名人位から引き摺り下ろそうと、弟子の[[赤星因徹]]を丈和に挑ませる。もしこの対局で赤星が勝てば、丈和に名人の資格無しとして丈和を引き摺り下ろす算段であった。この対局で丈和は有名な「'''丈和の三妙手'''」を放ち、赤星を下した。対局中、赤星は血を吐きその後26歳の若さで死亡。ここからこの一局を「'''吐血の一局'''」と呼ぶ。これにより因碩の野望は砕いたものの、[[林元美]]の八段昇段の内約を破ったことの訴えなどがあって、[[天保]]10年(1839年)に碁所を返上して引退。元丈の子である丈策に家督を譲る。
 
丈和天保6年(1835年)に[[浜田藩]]家老で[[ライバル安井家]]門人(二段)った[[井上幻庵因碩岡田頼母]]が老中[[松平康任|松平周防守]]に碁会を勧め、松平宅にて碁所で御止碁となっていた丈和も含めた手合を組む。因碩は丈和を名人位から引き摺り下ろそうと、弟子の[[赤星因徹]]を丈和に挑ませる。もしこの対局で赤星が勝てば、丈和に名人の資格無しとして丈和を引き摺り下ろす算段であった。この対局で丈和は有名な「'''丈和の三妙手'''」を放ち、赤星を下した。対局中、赤星は血を吐きその後26歳の若さで死亡。ここからこの一局を「'''吐血の局'''」と呼ぶ。これにより因碩の野望は砕いたものの、[[林元美]]の八段昇段の内約を破ったことの訴えなどがあって、[[天保]]10年(1839年)に碁所を返上して引退。元丈の子である丈策に家督を譲る。
 
丈和の碁は〝強力無双〟と呼ばれる激しい力碁が特徴で、[[本因坊道策|道策]]の前聖に対して後聖と呼ばれる。[[明治]]中頃、名人就任に関する一連の醜聞で一時期丈和の評価が落ち、[[本因坊秀策|秀策]]に後聖の名を奪われた事があった。しかし現在では丈和は認められ囲碁の三棋聖の一人として、史上最強棋士候補の一人として確固たる地位を得ている。
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*『国技観光』1826年
*『収秤精思』1835年
 
==関連項目==
*[[竹島事件]](松平康任と岡田頼母の関係)
 
{{先代次代|[[本因坊]]|十二世|[[本因坊元丈]]|[[本因坊丈策]]}}