「平成教育委員会」の版間の差分

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*1995年秋頃から97年1月までは独創力テスト、ひらめきパズルなど授業よりもクイズがメインになっていた。またこの時期に一時、ハンデ制も導入され(この時期は得点制だったため)、過去の成績などを元にハンデを設定していた。そのため渡嘉敷は常に500点からのスタートだったが、優勝は出来ず。
*[[1996年]]10月に3チームの対抗戦(田代班(席は青)・ラサール班(席は緑)・寿美班(席は赤)になり、10月~12月は生徒が12人から9人に減らし、レギュラー回でも「給食」もあった。これに伴い、中井は司会兼業から解答者専任となった。
*[[1997年]]1月に、新たに助手([[小島奈津子]]、現在は[[高島彩]]。なお、小島は中井同様[[制服]]っぽい衣装で登場したが、高島は純然たる助手っぽい衣装で出演し現在に至る)が登場。授業も国語や数学といったものに戻され、初期に近い形となる。しかし、因果は巡るかの如く、裏番組の『[[筋肉番付]]』(TBS)の追い上げに屈し、[[1997年]][[9月]]にレギュラー放送は終了を迎え、一旦幕を降ろすこととなる。
*[[1997年]][[9月27日]]の最終回では、[[ラサール石井]]や[[清水圭]]などの優秀な生徒32人が総出演。(この時の解答席は青・緑・赤に橙の4色だった。)これまで出題した難問を総復習し、優等生と成績最不良の生徒を決定した。最後に生徒の[[田代まさし]]とラサール石井が謝辞を読み上げた。北野もこの番組に対して想いが深かったこともあって感極まり号泣した。そして最後には第1回放送の放課後が流れ、北野と逸見が語り合い、そしてお互いに肩を組み合いながら教室を去っていく感動的なシーンで番組を締めくくった。
*最終回の直後の記者会見で北野は、初代学級委員長であり友人でもあった逸見政孝の名を出し「最後まで一緒にやりたかった・・・それが心残りです」という言葉で締めくくっている。