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'''目白中学'''(めじろちゅうがく)は、[[東京府]][[豊多摩郡]]大字落合村437番地外7番地合併地近衛公爵所有地に設置され、[[学習院]]の対蹠側にあり、現在の[[山手線]][[目白駅]]の西高台に瀟洒でやや中国的な校舎と棰の樹並木を校庭に持った[[東京同文書院]]に併置され[[東亜同文会]]との関わりで誕生した私学の旧制中学(正式名称「私立目白中学校」)であり、目白中学の初代・第2代の校長は旧[[熊本藩]]主・公爵家の[[細川護成]]、[[細川護立]]であったが、象徴的存在にすぎず、実質的な学校責任者は[[柏原文太郎]]であった。1909年から1935年まで「目白中学」の校名は存続し、柏原文太郎は「目白中学」の校名が消滅する翌年に67歳の生涯を閉じた。目白中学としての歴史は柏原文太郎と共に終焉した。なお、その後継が、[[杉並中学校・杉並高等学校]](杉並区)を経て、現在の[[中央大学附属高等学校]]である。