「九十九里浜闘争」の版間の差分

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==概要==
[[1948年]]4月、[[房総半島]]東部に面した九十九里浜一帯が、米軍[[高射砲]]演習場として占領当局に接収され、九十九里浜に隣接した海域も半径3万1千ヤードの海面を接収し「射撃指定海域」に指定された。当初は月曜日から金曜日まで毎日朝から夕方まで演習を行っていたが、地元の強硬な反対によって午後のみに変更され、53年頃から月曜日から木曜日までの正午から午後六時まで、高角砲並びに機関銃による実弾射撃演習を行った。九十九里浜は「キャンプ・カタカイ」と呼ばれ、高射砲の実弾演習が始まるとその爆音で魚群も逃げてしまい、漁船の出漁は午前中だけに限られた。学校の教室でも先生の声も聞こえないなどの「騒音問題」ともなった。漁場を奪われた漁民や慣れ親しんだ砂浜と海に砲弾が射ち込まれることに憤慨した住民は、すぐさま[[漁業権]]の補償交渉とともに「基地反対・撤去」を求める運動を開始した。
 
反対運動は、[[1950年]][[2月21日]]の「反[[植民地]]闘争デー片貝漁民大会」で高揚を示すが、占領当局は[[レッドパージ]]の状況に乗じてこの住民運動を「[[共産主義者]]に扇動された運動」として反対運動のリーダーや支援する[[日本共産党]]員を逮捕し、軍事裁判に掛けて弾圧した。一方で、この運動を契機にして、獲得した補償金の分配をめぐって漁師たちは自らの「[[網元]]・親方制度」の封建的なあり方に目を向けるようになり、[[1953年]]の6月から8月にかけて、白里(6月4日)、南白亀(7月1日)、白潟(8月1日)、豊海(8月8日)と相ついで漁民組合を結成し、翌年には船主を相手取った大規模な労働争議にまで発展する。「戦後民主化の波から最も程遠い地域」、「天然記念物ものの封建制度」と千葉県の役人がさじを投げていた地域で画期的なことであった。
 
また、[[1954年]][[2月11日]]には、千葉県[[山武郡]][[豊海町]]で「九十九里浜禁止海域」に「侵入」したとして約50隻の漁船に対して米軍が「元片貝射場」(現在の[[片貝海岸]])から数十発の威嚇射撃を行い、「退去」を求めるという事件も起きた。漁船から200メートル離れた水面に着弾し、数十メートルの水柱が立った、と目撃者は伝えている。 当時沿岸の漁民は非常に窮乏していて、「禁止区域」であっても魚群を見付けたときには危険を冒して漁を行っていた。アメリカ兵たちは、九十九里浜を「東洋のマイアミ」と呼んで、家族連れで海水浴を楽しんだりもした。