「ひめゆりの塔事件」の版間の差分

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沖解同(準)は、最終的に7月10日に「ひめゆりの壕」に潜伏して皇太子を待ち受け火炎瓶と爆竹を投擲する、という方針を決定し、同派メンバーの[[知念功]]と西田戦旗派のメンバーの二人が、11日に「ひめゆりの壕」に潜入した。知念によると、この「闘争」は、皇太子夫妻の暗殺や殺傷が目的ではなく、皇太子および皇族を「裁判闘争」に引きずり出して「[[天皇制]]の[[戦争責任]]」を追及することを最終目的にしていたという。また知念は、沖縄史ととりわけ[[沖縄戦]]の記録を読み漁ったあとに、壕に潜入したという。
 
7月17日の皇太子到着当時、警察は本土からの約1000人の応援部隊を含めて3700人の警察官による厳戒態勢を敷いた。[[沖縄県警]]は、左翼活動家を徹底的にマークし、尾行していた公安刑事の車両が、活動家の車両に追突事故を起こすという「珍事」もあった。また、[[屋良朝苗]]沖縄県知事の意向を受けた沖縄県労働組合協議会(県労協)は、幹部三役のみの会議よって「海洋博反対」「皇太子訪沖反対」については取り組まないことを決定するが、[[米軍基地]]労働者で構成する[[全軍労]](のちの[[全駐労]])や[[自治労]]沖縄などの労組は、海洋博会場付近および[[那覇]]市内、[[糸満市]]など沖縄南部などでの沖縄各地でのデモや、様々な業種での時限ストや抗議職場集会が取り組まれ、のべ三万人から四万人の労働者が「皇太子訪沖反対」の意思表示を行った。
 
== 事件の概要 ==