「シュタージ」の版間の差分

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[[画像:MFS.jpg|right|220px|シュタージのロゴ]]
'''シュタージ'''('''Stasi''')とは、[[東ドイツ]]の[[秘密警察]]・[[諜報機関]]である国家保安省('''Ministerium für Staatssicherheit'''、略号:MfS)の通称である。[[英語]]の「state security」に相当する[[ドイツ語]]の「'''Sta'''ats'''si'''cherheit」の太文字部分を読んで 「'''Stasi'''」 と呼ばれた。徹底した監視態勢で東ドイツ国民を震え上がらせるばかりでなく、[[西ドイツ]]にも[[スパイ]]を送り込み、東西両ドイツ国民から恐れられた。なお「Stasi」を[[日本語]]の[[カタカナ]]で表記する場合、英語読みか稀に「'''シタージ'''」と表記している文献もある。
 
== 歴史 ==
1947年8月16日、東ドイツのソ連占領軍当局は、「第5委員部(K-5)」(秘密警察組織)を創設した。その委員(大臣に相当)には[[ィルヘルム・ツァイサー]]を、副委員には[[エーリッヒ・ミールケ]]を任命した。形式上、K-5は[[人民警察]]刑事局に従属した。
 
注記:東ドイツでは1949年の[[ドイツ民主共和国]]建国以前からソ連軍軍政下に自治組織であるドイツ経済委員会 (Deutsche Wirtschaftskommission:[[:de:Deutsche Wirtschaftskommission|DWK]])があり、「人民警察」も組織されていた。つまり、ドイツ民主共和国の建国以前から警察組織が存在していた。この「人民警察」は後に「武装警察」を経て[[国家人民軍]]の母体となった。また、K-5やシュタージの創設には[[ナチス]]政権時代の秘密警察の[[ゲシュタポ]]や諜報機関の[[SD]]([[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]]情報部)の出身者が相当数採用されたとの説もあるが、詳細については不明な点が多い。真偽の程はともかく、「首から上はすげ変わったが首から下はゲシュタポやSDをそのまま受け継いだ」と揶揄されることもある。
 
1949年のドイツ民主共和国建国後、1950年に国家保安省が創設された。国家保安相にはツァイサーが、次官はミールケが任命された。1953年、ミールケは[[ベルリン暴動]]と関連して、ツァイサーを弾劾し、ツァイサーは解任された。国家保安省の地位は低下し、内務省に従属する庁扱いとなった。[[内務省国家保安局]]長には[[エルンスト・ォルェーバー]]が、副局長にはミールケが任命された。
 
1955年、シュタージは省の地位を取り戻した。ミールケは、[[ヴァルター・ウルブリヒト]]支持の際、ォルェーバーを弾劾した。1957年11月1日、ォルェーバーは、健康上の理由で辞任し、ミールケが国家保安相となった。ミールケの下で、シュタージには[[軍隊における階級呼称一覧|軍隊式の階級制度]]および[[制服]]が導入され、ミールケ自身は少将となった(1959年に中将)。
 
1958年、シュタージに、対外諜報を担当する「A」総局 ([[:de:Hauptverwaltung Aufkärung|HV A]])が創設された。「A」とは偵察を意味するドイツ語の「Aufklärung」の頭文字である。「A」総局長兼国家保安省次官には、[[マルクス・ォルフ]]少将が任命された。
 
1971年、シュタージの策動の下、ウルブリヒトは解任され、[[エーリッヒ・ホーネッカー]]と交代した。ホーネッカーは、感謝の印に、ミールケを[[ドイツ社会主義統一党]]政治局員候補にした。
 
1986年、ォルフが辞任。ォルフの後任には、[[ヴェルナー・グロスマン]]が任命された。当時、「A」局では、4,126人の職員が働いており、各国に4,500人以上のエージェントを有していた。
 
1989年11月、[[ベルリンの壁]]が崩壊し、シュタージは国家保安局に改称した。同年12月、同局は解散された。
== 対西ドイツ工作の成果 ==
*1954年7月20日、西ドイツの[[連邦憲法擁護庁]](BfV)長官代行[[オットー・ヨーン]]博士が東ドイツに亡命(のち西ドイツに帰国)。
*1985年8月15日、連邦憲法擁護庁長官[[ハンス・チトケ]]が失踪した。8月19日、チトケは、東ベルリンで記者会見を開き、西ドイツと決別し、東ドイツで新しい生活を送ることを明らかにした。後に[[ベルリン大学|ベルリン・フンボルト大学]]において、BfVの活動を記述した「ドイツ連邦共和国における憲法擁護庁の防諜機能」という論文で博士号を取得。1989年、ソ連に亡命。
 
=== 対国内諜報活動 ===
シュタージ解散後、米国とドイツ間でエージェントの名前が記された「シュタージ・ファイル」の獲得を巡る暗闘が始まった。シュタージ・ファイルとは、一種のカードであり、情報源の項目にはエージェントの登録番号と偽名、本文の項目には提供情報のレジュメと日時が記載されていた。
 
1990年1月15日、東ドイツの人権活動家達がベルリンの旧シュタージ庁舎を占拠した。彼らは、大量のファイルを入手したが、対外諜報機関関係の書類だけは一つも見つからなかった。対外諜報関係の資料は、マルクス・ォルフがソ連に持ち出したとも、[[ソ連国家保安委員会|KGB]]駐東ドイツ支局が焼却したとも言われている。当時、[[CIA]]は、「薔薇の木」作戦を実行し、大量のマイクロフィルムを奪取することができた。
 
ドイツ政府は、この文書の返還を求めたが、米国は拒否し続けた。ある時、CIAは、BfV駐ワシントン代表にエージェントのリストを閲覧させたが、この際、持ち帰りやコピーできず、筆写しか許されなかった。
*[[国家人民軍]]
*[[秘密警察]]
*[[報機関]]
*[[諜報活動]]
*[[国家保安本部]]
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