「島津忠廉」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Cprobot (会話 | 投稿記録)
m cprobot: subst Template:生没年
Oxhop (会話 | 投稿記録)
m 文明 (元号)→文明 (日本)
1行目:
'''島津 忠廉'''('''しまづ ただかど'''、[[永享]]11年([[1439年]]) - [[明応]]元年([[1492年]]))は、[[室町時代]]中期の[[薩摩国|薩摩]]の人。薩摩[[島津氏]]の分家、[[豊州家]]2代当主。父は初代[[島津季久]]。官は[[修理亮]]。子に[[島津忠朝]](3代当主)。
 
豊州家2代当主。初代当主季久の長子。[[長禄]]3年([[1453年]])、季久とともに[[蒲生氏]]の居城・[[蒲生城]]を攻撃し[[蒲生]]の地を支配下に置く。[[文明 (元号日本)|文明]]5年([[1473年]])、[[伊作家]]の[[島津久逸]]が反乱を起こすと当初は中立を保っていたが、突如として島津宗家11代当主の[[島津忠昌]]に叛旗を翻す。しかし[[薩州家]]の[[島津国久]]の説得により兵を収め、久逸が[[鹿児島]]へ攻め寄せると忠昌に従い久逸の軍勢を撃退した。
 
文明18年([[1486年]])、忠昌の命で[[新納氏]]に替わって[[飫肥城]]に入ると、[[伊東氏]]の侵攻を度々阻止している。明応元年(1492年)、[[摂津国|摂津]][[天王寺]]にて死去。享年54。[[宗祇]]から[[古今和歌集]]や[[伊勢物語]]の奥義を伝授されたほか、[[桂庵玄樹]]に[[朱子学]]を学んだと言われている。