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'''祖心尼'''(そしんに、[[天正]]16年([[1588年]]) - [[延宝]]3年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]([[1675年]][[4月5日]]))は、[[伊勢国]][[岩手城]]主・[[牧村利貞]]の娘で、[[江戸時代]]の[[江戸幕府|幕府]]3代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家光]]に仕えた[[尼]]である。名は'''おなあ'''。 同時期に[[大奥|江戸城大奥]]で'''「女帝」'''とまで言われてい権勢を振るった[[春日局]]の義理の姪にあたり、局に請われてその補佐役を務めた。[[臨済宗]][[済松寺]][[開基]]。
 
== 生涯 ==
おなあ(のちの祖心尼)は天正16年(1588年)、伊勢国岩手城主・牧村利貞の娘として生まれた。しかし、父・牧村利貞は、仕えていた[[豊臣秀吉]]による[[朝鮮出兵]]に出陣し、[[文禄]]2年([[1593年]])に死亡。おなあは父と懇意であった[[前田利家]]の導きにより、[[加賀藩]]前田家に引き取られ、[[前田利常]]とともに養育される。やがて、成長したおなあは前田家の分家である[[小松城]]へ嫁ぎ2人の男児を産むが、その後、突然、前田家より離縁を申し付けられる。この理由は諸説あって明らかではないが、おなあが[[キリシタン大名]]である[[高山右近]]との親交が深かったためとも言われている。
 
離縁を受け、おなあは幼い下の子供を連れ、生前の父が建立した[[京都]]・[[妙心寺]]「雑華院」[[住職]]で叔父の一宙禅師を頼り、身を寄せる。やがて、[[会津藩]]主[[蒲生忠郷]]の重臣[[町野幸和]]のもへ嫁ぎ再婚、重臣の妻として権勢を振るうが、ほどなく藩主・蒲生忠郷が死亡して、跡継ぎのいない蒲生家は[[改易|取り潰し]]となったため、夫・町野幸和が[[浪人]]となってしまう。
 
浪人となった一家は[[江戸]]に身を寄せ移住、おなあは暇に任せて多くの書物に触れ、この時期に多くの知識と教養を得た。その後、この教養を見込まれ、おなあの叔母で当時の大奥を取り仕切っていた春日局から自分の補佐役を依頼され、大奥に出仕するようになった。
 
大奥に入ったおなあは、やがて、雑華院で得た経験を生かし、大奥の女たちに[[禅]]の心を説いて聞かせるなど、女中の意識向上に尽力した。また、春日局に乞われて自身の孫娘である[[自証院|お振の方]]を春日局の養女として大奥に入れ、家光の[[側室]]とした。お振の方は[[寛永]]14年([[1637年]])に家光の長女・[[千代姫]](のちに[[尾張藩]]主[[徳川光友]]の妻)を生むが、[[産褥]]が思わしくなかったため、その看病にあたった(お振の方は、看病の甲斐なく寛永17年([[1640年]])に死去)。
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祖心尼は、将軍にも禅を説き、やがて、家光は祖心尼に幕府[[祐筆]]の[[大橋龍慶]]屋敷跡を寺領を寄進して寺院建立を指示し、祖心尼を開基として済松寺が建立される。家光は臨終の際に祖心尼を呼び、『わが身は日光に葬られても、わが心はこの済松寺に留まる』と言い残した。
 
家光の死後、祖心尼は大奥を去り、余生を済松寺で過ごした。
 
== 外部リンク ==