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rv. 「イエズス会のソース」とは具体的にどのような資料かご教示ください。
m 宣教師を分離し、定義をみなおす。ノート参照。
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'''宣教'''とは
'''宣教'''(せんきょう)は、[[宗教]]の教えをひろめる活動。'''伝道'''や'''布教'''とも言う。
 
*ある思想や[[宗教]]を広める活動、特に[[キリスト教]]における活動を指す。「伝道」「布教」ともいう。
== 宣教 ==
**[[Category:宣教_(キリスト教|せんきよう)]]
多くの宗教が、宣教師によって宗教の教えを広めた。日本にも、[[江戸時代]]に[[キリスト教]]の宣教師が宣教を行ったことがある。
== **[[宣教師 ==]]
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=== 仏教における宣教 ===
=== キリスト教における宣教 ===
[[救世主イエス・キリスト|キリスト]]自身が行った宣教活動を現今のキリスト教会の宣教と同一視すべきかはおいても、[[聖霊降臨|聖神降臨]]以後、[[使徒行伝]]に書かれている[[初代教会]]の宣教活動は現在の教会の宣教と同一の質を有するものである。[[聖霊|聖神]]の助力の許で、使徒の伝承を受け継ぐ者([[主教]])が体験した[[キリスト教]]という生活そのものを分かち合う人々を獲得してゆく。生活を分かち合う人々が集う場所は、最初は信徒の家が一般的であるが、人数が増えていけば[[教会]]という特定の施設を建設するようになる。
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*[[1869年]](明治2年)[[明治政府]]によって祭祀、祝部、神戸、諸陵などと並んで置かれた[[神祇官]]の職位の一つで神道思想の普及を行うもの。
== 宣教師 ==
'''宣教師'''(せんきょうし)とはある特定の思想や[[宗教]]を伝えるために、自分の属する共同体を離れて活動する者のこと。もともとは[[キリスト教]]用語で、[[イエス・キリスト]]の高弟たちのことを[[使徒]]と呼ぶが、その[[ギリシア語]]表現であるアポストロス(απόστολος)本来の意味は「遣わされた者」であり、これが[[ラテン語]]に訳された際に、同じ意味を持つ"missio"の語が充てられた。宣教師を意味するヨーロッパの各言語における表記は、このラテン語表記に由来する。([[英語]]のmissionary、[[ドイツ語]]のmissionarなど。)現代では本来のキリスト教用語として意味だけでなく、広義で新思想の普及者を指してそう呼ぶことがある。
 
*[[奈良時代]]の[[興福寺]]の名僧。[[玄賓]]や[[賢憬]]の師。
=== キリスト教における宣教師 ===
キリスト教福音派の代表によって[[1974年]]に[[スイス]]の[[ローザンヌ]]で行われた[[世界伝道会議]]では、キリスト教の宣教とは「対象となる土地の文化や思想に適合した形でキリスト教を伝える」ことと定義された。同会議は、この行為の原動力が名誉や経済的成功でなく、神の御名(栄光)が高められることであると改めて宣言した。キリスト教のすべての宣教行為のモデルはイエス・キリストその人の活動であり、これは神の意志にそった行為であると考えられてきた。
 
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宣教師は単に教えを伝えるだけでなく、派遣された地域の経済的発展や教育水準、衛生水準の向上に取り組むことを常としてきた。伝統的なキリスト教の教義ではこういった行為は、新しい信徒の獲得という見返りを求めることなく純粋な利他的行為として行われなければならないとしている。
 
==== 聖書に見られる宣教師 ====
ローザンヌでの世界伝道会議の会議文書によれば、宣教師の精神はすでに[[旧約聖書]]の『[[創世記]]』の中にその萌芽が見られるという。それは『創世記』12:1-3の[[アブラハム]]に対する神の言葉であるが、神はアブラハムを通して世界の人に恵みが与えられることを約束する。新約聖書では『[[マタイによる福音書]]』28:20でイエスが弟子たちに対して世界中で教えを伝えるよう派遣する場面がある。
 
==== 古代教会と宣教師 ====
初代教会の時代、最初のキリスト教徒たちは非ユダヤ人に対してキリストの教えを伝えた。中東、ヨーロッパ、アフリカなど[[ローマ帝国]]の各地へ、あるいはローマ帝国外の地域へキリスト教が伝えられた。
 
9世紀にはコンスタンティノポリスの[[キュリロス]]と[[メトディウス]]兄弟により、スラブ民族への宣教がなされた。多神教文化へのキリスト教の宣教は必ずしも順調ではなく、宣教師や入信者のうちに殉教する者も多く出た。またこの地域は西方東方の境界線に当たっていたため、ヨーロッパ諸侯の政治的思惑もからみ、教会の管轄権問題によって宣教活動自体が影響され、特定の教会に所属するものにのみ宣教活動が許可されることもあった。
 
==== カトリック教会の宣教師 ====
[[大航海時代]]に入って航海技術が発達し、ヨーロッパ人がそれまで行くことができなかった地域に足を伸ばすようになると、多くのカトリック宣教師がアメリカやアジアへ向かった。特に南北アメリカで行われた宣教活動はカトリック教会の歴史の中でも、最も大規模かつ有名な宣教事業となった。カトリック教会の宣教師たちはみな[[修道会]]に属し、修道会の命を受けて派遣された。一種の多国籍企業とも言える修道会は国家の制限を超えて活躍することができたため、アメリカにおける初期の宣教事業は国家による制約を受けずに遂行された。しかし[[スペイン]]や[[ポルトガル]]といった国々がアメリカにおける植民地体制を堅固なものとして構築していくと、その制約を受けない修道会の宣教事業の存在が邪魔となり、対立を繰り返しながら制限を加えるようになっていった。
 
[[15世紀]]以降、世界各地に盛んに宣教師を派遣した修道会としては[[フランシスコ会]]、[[ドミニコ会]]があり、[[16世紀]]に入ると新しく生まれた[[イエズス会]]が際立った働きを見せるようになった。イエズス会員たちが中国やインド、アジアの宣教において実践した「[[適応政策]]」は、ヨーロッパのスタイルを押し付けるのではなく、当地の文化に自分たちを合わせるという当時のヨーロッパ人にとっては想像もできないほど画期的な方法論であり、大きな成功を収めたが、やがて貿易事業に利権を持つ各国政府の介入やイエズス会の急進を危険視したカトリック教会内での対抗勢力との争いがおこったために頓挫することになった。19世紀後半になると再び宣教熱が高まり、従来の修道会に加えて[[サレジオ会]]などの新修道会も盛んに宣教師を派遣するようになった。
 
==== 東方正教会の宣教師 ====
東方正教会においても特にロシア正教会では熱心な東方宣教活動が見られた。正教会の宣教師たちは、シベリア・アラスカ等に宣教し、現地語を学び聖書を翻訳し現地語典礼を行いながら改宗者を獲得していった。
 
==== キリスト教諸教派の宣教師 ====
キリスト教の歴史の中では、プロテスタントの諸教派も盛んに宣教師を送り出して教勢の拡大につとめている。特に宗教改革の時代、多くのプロテスタントの宣教師がヨーロッパ各地で活躍し、新たな信徒を獲得することになった。他にもキリスト教系の新興宗教である[[エホバの証人]]の信徒たちが盛んに宣教活動を行うことはよく知られている。[[末日聖徒イエス・キリスト教会]](モルモン教)も信徒を派遣して宣教活動を行っている。
 
==== 日本とキリスト教宣教師 ====
日本に到達した最初のキリスト教宣教師は有名な[[フランシスコ・ザビエル]]である。彼はイエズス会の創立メンバーの一人であり、すでにインドでの宣教活動で大きな成功を収めていた。しかし、彼はインドでは宣教活動において植民活動をすすめていたポルトガル政府の干渉を受けることに不満を持っていた。そのころ、倫理意識が強く教育水準の高い国民が多いという日本の噂を聞き、ポルトガル政府に干渉されない日本で自由に宣教してみたいと思うようになった。こうしてザビエルは[[1549年]]に念願の日本に到着した。ザビエルに続き、多くのイエズス会員が日本を訪れた。ヨーロッパ本国における価値観や方針を守ることよりも、宣教相手の文化や習慣を尊重するイエズス会独自の宣教方針は適応政策と呼ばれた。
 
イエズス会員たちの活発な活動によって多くの日本人がキリスト教徒になった。しかし、非カトリック国のイギリスやオランダが反スペインの立場から盛んにカトリック教会の危険性を喧伝したことや、カトリック教会の修道会の中でもイエズス会と、その成功に反発するフランシスコ会やドミニコ会との間でいざこざがあったこと、短期間での急速な信徒拡大を危険視した権力者たちの意図などさまざまな要因が複合してキリスト教は禁止されるにいたり、カトリック教会の宣教師たちもあるものは追放され、あるいは棄教をせまられ、あるものは処刑された。
 
[[1587年]]の[[バテレン追放令]]によってキリスト教への弾圧政策を行ったのは[[豊臣秀吉]]であったが、彼の時代には[[日本二十六聖人]]の殉教で宣教師の処刑は行われたものの、それほど大規模な迫害は行われなかった。秀吉の後を継いだ[[徳川家康]]はキリスト教禁止を国策化し、[[慶長17年]]([[1612年]])に江戸幕府による正式な禁教令が出された。
 
幕末になると、再びカトリックをはじめ、プロテスタント・東方正教会の宣教師たちが日本を訪れるようになった。初めは日本で暮らす外国人のためという名目であったが、明治6年(1873年)になって公式にキリスト教禁止が解除されると、宣教師たちは公に活動できるようになり、教育・医療事業を行いながらキリスト教の布教につとめ
日本の近代化に対して大きな貢献を行った。この時代、今も続く多くのキリスト教系学校(ミッション・スクール)が創設されている。
 
外国人の宣教師たちは国家神道政策がすすんだ第二次大戦中の一時期、敵国人という理由で再び迫害を受けることもあったが、第二次大戦後には再び多くの外国人宣教師が日本にやってきて社会福祉や教育事業に取り組むようになり、現代に至っている。
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==== キリスト教布教と文化破壊 ====
宣教師は、[[偶像崇拝]]の名のもと、他の宗教の破壊した。そうした行動は、必然的に[[先住民]]の固有文化の破壊をまねいた。なぜなら、布教対象の民にとって、宗教が相対化されていることはほとんどなく、宗教と固有文化は渾然一体となっているからである。現在でも宗教研究者が「あなたの宗教は何か?」と質問することがあるが、これは宗教がパッケージ化されていることを前提とした西洋人の思い上がりが背景にある。
 
キリスト教による文化破壊は早くもゲルマン人への布教時に確認される。例えば、ボニファティウスは、ゲルマン人の目の前で神木を切り倒して改宗を迫ったという。近世の日本おいても、15世紀のキリスト教宣教師が神社仏閣の破壊を推進したが、布教の背後に侵略の意図を感じた[[豊臣秀吉|秀吉]]や後継の[[徳川幕府]]は、[[禁教令]]で対抗したため、日本ではキリスト教宣教に伴う自国文化の破壊はふせがれた。
 
宣教活動に伴う文化破壊は現在でも起こりうる。特に現代では物質文明における圧倒的な優越をともなうため、宣教師の意図にかかわらず文化破壊が起きる。例えば、ブラジル奥地に赴いた宣教師が、布教の傍ら現地語を研究したものの、苦心の末に聖書の翻訳を終えた時には既にその言語は死語と化していたという笑えない逸話も残っている。
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=== キリスト教以外の宗教と宣教師 ===
キリスト教の他でも[[イスラム教]]もその発祥以降、[[アラビア半島]]から[[アフリカ]]、[[東南アジア]]へと急激に信徒を増やしたが、これにはアラブの航海者や貿易商が盛んにイスラム教を広めたこと、アラビア半島のイスラム教徒たちが剣を持って周囲を席巻し、征服した地域の住民をイスラム教徒に改宗させていったことなどが背景にある。こういった人々も一種の宣教師といえるのかもしれない。
 
[[仏教]]は宣教とはあまり縁がないように見られがちな宗教であるが、古代インドでの発祥後、僧たちがその教えを東南アジア各地に伝え、信徒を獲得したことはよく知られている。しかし仏教徒にとっては残念なことに、東南アジアの多くの地域はその後、新興のイスラム教に席巻されることになる。
 
==関連項目==
*[[ルイス・フロイス]]
*[[モルモン宣教師]]
*[[伝道師]]
*[[キリシタン大名]]
 
[[Category:キリスト教|せんきよう]]
[[Category:宗教行為|せんきよう]]
[[Category:宣教師|*せんきよう]]
 
[[als:Missionar]]
[[bg:Мисионер]]
[[cs:Misionář]]
[[da:Missionær]]
[[de:Missionar]]
[[en:Missionary]]
[[es:Misionero]]
[[fr:Missionnaire (chrétien)]]
[[fy:Misjonaris]]
[[hu:Hittérítő]]
[[it:Missionario]]
[[ko:선교사]]
[[lb:Missionnär]]
[[nl:Missionaris]]
[[pl:Misja (religia)]]
[[pt:Missionário]]
[[ru:Миссионерство]]
[[sl:Misijonar]]
[[tr:Misyoner]]
[[uk:Місіонерство]]
[[zh:传教士]]
[[zh-min-nan:Thoân-kàu-sū]]