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'''河朔三鎮'''(かそさんちん)とは、[[中国]]の[[晩唐
[[安史の乱]]後、[[代宗 (唐)|代宗]]は[[安禄山]]の旧臣であった[[李懐仙]]を幽州に、[[田承嗣]]を魏博に、張忠志(後に[[李宝臣]])を成徳に封じた。その後河朔三鎮は次第に地方勢力として独立し、唐王朝の勢力が及ばなくな
だが、[[憲宗 (唐)|憲宗]]が河南二鎮を攻め滅ぼす事に成功すると、これを恐れた三鎮は一時的に唐王朝に帰順したが、憲宗崩御後に再び独立して自立を回復する。だが、その勢力圏は独立国家を打ち立てるには不十分で、なおかつ北方には強大化しつつあった[[契丹]]の存在が三鎮の勢力圏を脅かしていた。更に三鎮の主帥の地位も不安定で有力な配下武将や[[親衛軍]]による[[下剋上]]による交代も珍しくは無かった。このため、唐王朝に命令を拒絶しながらも、その権威を借りなければ三鎮そのものが維持できないという自己矛盾を内含しつづけていたのである。一方、唐王朝側も王朝自体の衰微もさることながら契丹の南進を食い止めるために河朔三鎮の自立をあえて放置して彼らに契丹と対峙させる路線を取る様になった。
だが、[[朱全忠]]による唐の滅亡と[[後梁]]の成立とこれに対抗した[[李克用]]の[[後唐|晋(後唐)]]の成立によって両勢力の中間に位置した河朔三鎮は一転してその草刈場となる。これに危機感を抱いた幽州節度使[[劉守光]]は「[[桀燕|燕]]」を建国して両者と対抗しようとするが、燕は李克用の後を継いだ[[李存勗]]によってたちまち攻め滅ぼされ、魏博節度使は後梁に成徳節度使は後唐にそれぞれ屈服してその支配下に入る事になった。
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