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'''大高城'''(おおだかじょう)は、[[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]]大高町にあった城。
 
[[桶狭間の戦い]]の前哨戦として、当時[[今川義元]]の配下であった松平元康([[徳川家康]])「兵糧入れ」をおこなったことで名高い。現在は国指定[[史跡]]となり公園として整備されている。
== 歴史 ==
築城年代ははっきりしないが、[[土岐頼康]]が[[尾張守]]であった南北朝期には[[池田頼忠]]が城主を務め、[[永正]]年代には[[花井備中守]]や、[[水野為善]]とその息子の忠守が居城したことが伝えられている(為善については異説もある。また忠守は[[水野忠政]]の息子の[[水野忠守]]とは別人)。
 
[[天文]]年間も引き続き水野氏が治めたが、[[織田信秀]]の支配下にあった。天文17年([[1548年]])に[[今川義元]]の命で[[野々山政兼]]がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死する。 信秀の死後、息子の[[織田信長]]から離反した[[鳴海城]]主[[山口教継]]の調略により、大高城は[[沓掛城]]とともに[[今川氏]]の手に落ちる。この脅威に対して信長は[[丸根砦]]と[[鷲津砦]]を築き、大高城に圧力を加える。
 
しかし信秀の死後、息子の[[織田信長]]から離反した[[鳴海城]]主[[山口教継]]の調略で、大高城は[[沓掛城]]とともに今川方の手に落ちる。この脅威に対して信長は「丸根砦」「鷲津砦」を築き、大高城に圧力を加える。永禄2年([[1559年]])、[[朝比奈輝勝]]が義元の命をうけ大高城の守りに入る。
永禄2年([[1559年]])には義元の命により、[[朝比奈輝勝]]が大高城の守りに入る。翌永禄3年([[1560年]])に[[桶狭間の戦い]]が起こるが、大高城の包囲を破りそのまま[[鵜殿長照]]が守備についた。5月18日夜、大高城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死を確認した元康は大高城を引き払い、[[岡崎城]]に移った。ちなみに「兵糧入れ」の時期は、史書により年代が永禄元年から永禄3年と幅がある。これについては、複数回「兵糧入れ」が元康により行われたのではないか、と考える研究者もいる。
 
永禄2年([[1559年]])には義元の命により、[[朝比奈輝勝]]が大高城の守りに入る。翌永禄3年([[1560年]])に[[桶狭間の戦い]]が起こるが、大高城の包囲を破りそのまま[[鵜殿長照]]が守備についた。5月18日夜には、大高城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死(桶狭間の戦い)を確認した元康は大高城を引き払い、[[岡崎城]]に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった。ちなみ(ただしもっと早く、永禄元年元康の「兵糧入れ」が行われたと記す史書もある。そ時期は、史書により年代が永禄元年から永禄3年と幅の記述間違いである。これ可能性もあるが、大高城が今川方ついては、複数回「落ちた直後にも元康が兵糧入れ」が元康によりわれたのではないか、と考える研究者もいる。
しばらくの間廃城になっていたが、元和2年([[1616年]])に[[尾張藩]][[家老]]の志水家がここに館を設けて代々住み、明治3年([[1870年]])に売却された。
 
しばらまもなの間廃城なっていたが、元和2年([[1616年]])に[[尾張藩]][[家老]]の志水家が、元和2年([[1616年]])にここに館を設けてから代々住み、むようになった。この館も明治3年([[1870年]])に売却された。
 
== 現在 ==
[[昭和]]13年([[1938年]])に国の史跡に指定され、現在は「[[大高城址公園]]」として整備されている。かつては二重の[[堀]]が張り巡らせてあったというが、現存する主な遺構は、[[本丸]]及び二の丸の[[曲輪]]跡、それらの間に存在する土橋と空堀などである。また本丸隅の一段高くなった区画には城山八幡社と、明治40年([[1907年]])に建てられた城址碑がある。近辺には、[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])に大高城主[[水野大膳]]が父の[[水野忠氏]](和泉守籐九郎近守、[[水野忠氏]])を弔うために建てた[[曹洞宗]]寺院、[[春江院]]がある。
 
== 交通 ==