「憲徳王」の版間の差分

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これらの反乱の平定の論考功賞においては、反乱をいち早く王都に知らせた者を重視する王都中心主義が強く見え、また反乱に加担しなかった地方には7年間の租税を免除するなどしており、地方行政を疎かにするだけではなく、王権の地方への関与を放棄して地方の自治を公認するかのような政策に堕したと見られている<ref>井上秀雄1972 p.238.</ref>。
 
在位18年にして826年10月に死去し、憲徳王と[[諡]]された。泉林寺の北(『三国遺事』王暦では泉林村の北とする)に葬られたといい、その王陵は慶尚北道[[慶州市]]東川洞の史跡第29号が比定されている。死去年については、『[[旧唐書]]』新羅伝には[[大和 (唐)|大和]]5年([[831年]])に、『[[新唐書]]』新羅伝では[[長慶]]・[[宝暦 (唐)|宝暦]]年間(821年 - 827年)に死去したと伝えられているが、『三国史記』新羅本紀・憲徳王紀の末文の[[分注]]では『古記』に「在位18年の宝暦2年[[丙午]]4月に死去した」と伝えることを記し、『旧唐書』の伝を否定している。
 
== 脚注 ==
<references />