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'''平 業盛'''('''たいら の なりもり'''、[[嘉応]]元年([[1169年]])? - [[寿永]]3年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]([[1184年]][[3月20日]]))は、[[平教盛]]の三男。兄に[[平通盛|通盛]]、[[平教経|教経]]の弟。[[蔵人官位]]は[[従五位下]][[蔵人]]
 
父の教盛は[[平清盛]]の弟で、[[平氏政権]]の全盛の中で若くして任官し栄達した。
 
寿永2年([[1183年]])7月、[[源義仲]]に追われ、父や兄ら平家一門ともに都落ちした。
 
寿永3年(1184年)2月7日、[[一ノ谷の戦い]]において、兄たちとともに山手の城戸口の防備にあたったが[[源範頼]]の軍によって討たれた。『[[平家物語]]』によると、業盛は[[常陸国]]の住人・[[土屋重行|土屋五郎重行]]と組んで討たれたと
 
『[[源平盛衰記]]』にはより詳しく最後の様子が描かれ、[[源義経]]の逆落としの奇襲によって大混乱に陥った[[平家]]軍は海上の船団に向かって敗走しはじめた。業盛は馬上、渚に佇んでいたところを泥屋四郎吉安に組みかかられ、双方馬から落ちて上になり、下になりながら組み合っているうちに古井戸に落ちてしまった。業盛が上になって四郎の首を搔こうとするが、そこへ泥屋五郎が助けに現れて、業盛に兜に取りついた。業盛は振りほどこうとして、五郎は兜をつかんだまま投げ飛ばされた。だが、業盛は手負いになっており、五郎は起き上がると業盛の首を取り、兄を井戸から引き上げた。このとき業盛は17歳で、その力の強さに人々は感心したという。
 
『[[吾妻鏡]]』によると、この戦いで、兄の通盛、教経も討ち死にしている。このうち教経については『[[玉葉 (九条兼実の日記)|玉葉]]』などに生存説があり、『平家物語』『源平盛衰記』などの[[軍記物語]]ではこの後の[[屋島の戦い]]、[[壇ノ浦の戦い]]で大いに活躍している。
 
2月13日、一ノ谷の戦いで討たれた他の平家一門の首とともに[[京都|京]]で[[獄門]]に処された。
 
[[一ノ谷の戦い]]において、山手の城戸口の防備にあたった。『[[平家物語]]』によると、業盛は[[常陸国]]の住人・[[土屋重行]]と組んで討たれたという。
 
[[Category:平安時代の武士|たいらのなりもり]]
[[Category:平家|なりもり]]
[[Category:1169年没|たいらのなりもり]]
[[Category:1184年没|たいらのなりもり]]