「孫六兼元」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Calvero (会話 | 投稿記録)
m Reverted edit of 142.161.2.190 (会話), changed back to last version by 82.230.192.162
11行目:
:磨り上げられても流麗さを損なわない輪反り、身幅をひろく重ねをうすくして平肉のない造りこみ、刃通りをよくした剣形。
;肌
:潤いのある肌=鉄は板目流れて柾の加減(柾が少ない)が見事、これが一座製(関にて3代目他の兼元が組織した一座=を名乗る刀工集団 2代目兼元の名声に肖って組織されたとも戦国時代の幕開けとともに需要に応える為とも諸説ある)のものと一線を画する。但し、平造りの短刀に限って平地が杢目肌に刃が板目流れるといった面白味のある別作(注文打ちもある。
;刃紋
:所謂行・草の三本杉は2代目兼元が創案したもので 「関の孫六三本杉」として人口に膾炙している。その独特の変化と味わいの有る刃紋は焼頭から匂いが刃先に抜け刃中の働き(金線・砂流)が豊富であり、刃縁柔らかく丸みを帯びた三本杉に力強さが感ぜられ、“明るく冴えた地鉄そのものが強靭にできている為、研ぎ減って刃が駆け出したものでも他の刀をも両断してしまうほどの強靭性を誇る。その秘密は美濃伝特有の「四方詰」鍛錬法による。「四方詰」とは軟らかい鋼の四方を硬い鋼で固める鍛錬法で複雑高度な技術である。
 
==間違った認識==
刀剣界に於いて2代目兼元(孫六)は赤坂(現在の[[大垣市]])で鍛刀していたのだから「関の孫六」ではない、などといわれているが、それは早合点というものである。その根拠は[[延徳]]の終わり頃に清関兼元と兼基と孫六兼元らが赤坂から産出する優秀な赤鉄鉱を求めるため関から赤坂へ出向したのであって、赤坂千手院鍛冶には同化していない。その証拠に関鍛冶にだけ許される「兼」の字を用い、茎の仕立て(鑢目など)など関鍛冶の掟を完全に墨守しており、古来より親しまれている通り「関の孫六」が正しい。
 
==大衆とともにある名工の代表者==