「田淵行男」の版間の差分

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*[[1939年]] 6月1日、独逸学協会中学校の博物学教師となる。同校では生物部と写真部の活動を指導。山岳部(名称はコッヘルクラブ)の発足を導いた。
*[[1943年]] 5月31日、独逸学協会中学校辞職。[[日本映画社]]教育映画部製作課教育映画係に入る。
*[[1945年]] 3月31日、東京下町方面大空襲によって、田淵の家は都市疎開実施要綱の「[[建物疎開]]」の指令を受ける。7月山案内人寺島嘉多治の紹介で[[長野県]][[南安曇郡]]西穂高村大字牧(現在の[[安曇野市]]穂高牧)の藤原源吾氏方の納屋(蚕室の2階)に[[疎開]]。この頃からFFD株式会社(教育スライド制作会社)などと[[フリーランス]]契約を結び、理科教材の制作、撮影などを手がける。(1961年まで)
*[[1946年]] 52日、[[白馬岳|白馬]]山麓にギフチョウが豊かに棲みついている事実を発見。 
*[[1950年]] 7月、『[[アサヒカメラ]]』(7(7月号)に表紙と特集に3枚の組写真「夏の山」が掲載される。1212月、『アサヒカメラ』(12(12月号)に国際写真サロン入選作品として、「初冬の浅間」が発表される。
*[[1951年]] 『田淵行男 山岳写真傑作集』([[朝日新聞社]]、アサヒカメラ臨時増刊)刊行。9月、『科学朝日』(9(9月号)に「高山蝶をたずねて」を発表。これが田淵の高山蝶研究第一声であった。
*[[1952年]] 写真集『わが山旅』([[誠文堂新光社]])刊行。6月、雑誌『子供の科学』(誠文堂新光社)の編集長で、名著『昆虫の生態』(誠文堂新光社、1951年)の著者、田村栄が田淵宅を訪ねる。
*[[1957年]] 初の生態写真集『ヒメギフチョウ』(誠文堂新光社)刊行。日本昆虫学会創立4040周年記念展「世界の昆虫展」(東京[[日本橋]]白木屋/10/101〜13~13日)にチョウの細密画147147点と高山蝶の生態写真114114点を出品。
*[[1958年]] 写真集『尾根路』(朋文堂 朋文堂山岳文庫)、写真集『山』([[平凡社]] 世界写真作家シリーズ)刊行。
*[[1959年]] 生態写真集『高山蝶』(朋文堂)刊行。
*[[1960年]] 『高山蝶』によって日本写真批評家協会賞(特別賞)、富士フォトコンテストシリーズ富士プロフェッショナル写真賞(自由写真最優秀賞)受賞。
*[[1961年]] 1212月、[[南安曇郡]][[豊科町]]南穂高(現在の[[安曇野市]]豊科南穂高)へ転居。
*[[1962年]] 生態写真集『小さなラガーたち アシナガバチの生態』([[講談社]])刊行。
*[[1964年]] 講談社のカラー百科『ちょう』(監修:白水隆)の写真を手がける。[[山岳写真]]撮影の手引書『私の山岳写真』(東京[[中日新聞社]] 編集:杉本誠)刊行。 
*[[1965年]] 『岳人』(1(1月号から1212月号)に『私の山岳写真』の続編として「山岳写真講座」連載。11112626日、19661966年度日本写真批評家協会賞(作家賞)を受賞する。
*[[1966年]] 写真集『北ア展望』(朝日新聞社)刊行。
*[[1967年]] 日本写真批評家協会賞(作家賞)受賞。ガイドブック『槍・穂高・常念岳』([[実業之日本社]] ブルー・ガイドブックス)、写真集『山の時刻』([[朝日新聞社]])刊行。
*[[1968年]] 1010月より『自動車労連』(自動車産業労働組合連合発行)に連載開始(合計116116回、19881988年まで)。
*[[1969年]] 写真集『山の季節』([[朝日新聞社]])刊行。
*[[1970年]] 7月、「田淵行男写真展 山の明暮」(東京・富士フォトサロン)開催。
*[[1971年]] 写真集『山の意匠』(朝日新聞社)刊行。[[松本市]]芸術文化賞を受賞。北海道の高山蝶の調査を開始する。以後、1977(昭和52)年まで、大雪山・羅臼への踏査を2020回行う。
*[[1972年]] 写真絵本『ぎふちょう』(千趣会 エーブルしぜんシリーズ)刊行。 
*[[1974年]] 生態写真集『ギフチョウ ヒメギフチョウ』([[講談社]])、写真集『麓からの山 浅間・八ヶ岳』(朝日新聞社)刊行。
*[[1975年]] 4月、主人公に田淵行男をモデルとした[[NHK]][[連続テレビ小説]]「[[水色の時]]」が放映される(9(9月まで)。写真集『日本アルプス』(国際情報社 美しい日本シリーズ)刊行。
*[[1976年]] 65日、[[環境庁]]長官より自然保護思想普及功労賞が贈られる。受賞の日、田淵は大雪山にダイセツタカネヒカゲの幼虫を追っていた。写真文集『安曇野』([[朝日新聞社]])刊行。
*[[1978年]] 生態写真集『大雪の蝶』([[朝日新聞社]])刊行。この頃、[[パーキンソン氏病]]と判明。闘病の中で次々と著作をまとめていった。
*[[1979年]] 53日、[[長野県]]知事表彰(芸術部門)受賞。生態写真集『日本アルプスの蝶』([[学習研究社]])刊行。67日、新設の豊科町郷土博物館(現在の[[安曇野市豊科郷土博物館]])に田淵行男室が設置される。7月から8月、「高山蝶 田淵行男写真展」(豊科町郷土博物館)開催。72020日、日出子夫人と共にヘリコプターで[[上高地]]から[[常念岳]]へ登る(206(206回目)。これが田淵最後の登山となった。
*[[1980年]] 写真集『尾根路Ⅱ』(愛真出版)刊行。
*[[1981年]] 記録写真集『山の紋章 雪形』(学習研究社)、『北アルプス』(講談社 カラー科学大図鑑)、写真集『尾根路Ⅱ普及改訂版』(同時代社)、資料集『田淵行男 山と高山蝶』(豊科町郷土博物館)刊行。
*[[1982年]] 写真文集『安曇野挽歌』(朝日新聞社)刊行。
*[[1983年]] 蝶の細密画と文で構成した『山の絵本 安曇野の蝶』(講談社)と同書特装本を刊行。61日、日本写真協会賞(功労賞)受賞。
*[[1984年]] 11111717日、豊科町名誉町民(第1号)となる。([[安曇野市]]の[[名誉市民]]として現在も引き継がれている。)
*[[1985年]] 写真集『山のアルバム』(講談社)、文集『黄色いテント』(実業之日本社)刊行。なお、この「黄色いテント」には田渕が実際に使用したテントの生地を装丁に使った特装本(限定88部)も刊行されている。
*[[1986年]] 『山のアルバム』の特装本を刊行。『山岳写真家・田淵行男の世界』(市立大町山岳博物館/7/7月から8月)開催。
*[[1987年]]  写真文集『山の手帖』(朝日新聞社)刊行。日本鱗翅学会より永年の蝶学会での功績が認められ表彰される。1010月、[[脳梗塞]]の発作を起こし、豊科赤十字病院(現在の[[安曇野赤十字病院]])へ入院する。
*[[1988年]] 3月から4月、「自然への讃歌 田淵行男展」(豊科町郷土博物館)を開催。生態写真集『アシナガバチ』([[講談社]])と同書特装本を刊行。
*[[1989年]] 52828日、「[[田淵行男記念館]]の建設を進める会」発足。53030日、入院先の豊科病院において死去。61111日、豊科町町民葬が執り行われ、豊科町民名誉墓地に葬られる。
*[[1990年]] 77日、[[田淵行男記念館]]開館。
 
==作風==
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