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[[370年]]、[[前燕]]が[[前秦]]により滅ぼされると、慕容泓を始めとする多くの鮮卑慕容部族は関中へと移住した。
 
[[383年]]、前秦[[ヒ水の戦い|淝水の戦い]]で敗退、国内の各部族の影響力が弱まると、翌年慕容泓の叔父である[[慕容垂]]が河北で叛乱を起こした。北地長史に任じられていた慕容泓はこの報を菊や即座に関東の鮮卑部族を終結させ、都督陝西諸軍事、大将軍、雍州牧、済北王を自称し、慕容垂を呉王と表奉した。当初慕容泓は前燕の故地に戻り慕容垂への帰順を考えたが、前秦軍を撃破すると、西進し前秦の都城である[[長安]]に入城、[[燕興]]と改元した。しかし弟の[[慕容沖]]を擁立しようとする[[高蓋]]などにによりまもなく殺害されてしまう。
 
慕容泓は燕王あるいは燕帝を自称していないが、独自の元号を立て自立しており、実質的な西燕の建国者とされている。