「フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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父の存命中からハンガリー王位、ボヘミア王位を継いで、父の治世を助けた。[[三十年戦争]]継続中の[[1634年]]、皇帝軍司令官[[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン|ヴァレンシュタイン]]が父によって[[暗殺]]された後を受けて、皇帝軍の指揮権を委ねられた。ヴァレンシュタインの死去を好機と見た[[スウェーデン]]軍が、大挙して侵攻して来たが、フェルディナント3世はこれを[[ネルトリンゲンの戦い_(1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]で破り、逆にその存在を知らしめたのである。1637年、父の死去により神聖ローマ皇帝として即位した。
 
しかしその後も[[三十年戦争]]が続いた結果、帝国内は戦争のために大いに荒廃してしまった。[[1645年]]には、ボヘミアへ侵攻したスウェーデン軍に皇帝軍が敗れると、[[ウィーン]]へ逃亡する失態を犯し(ボヘミアの王位は、翌[[1646年]]、息子のフェルディナント4世へ譲位する)、窮したフェルディナント3世は[[諸侯]]に休戦を主張するも相手にされなかった。それでも新旧両派の妥協により[[1648年]]、[[ヴェストファーレン条約]]締結を受諾することで、ようやく三十年戦争を終結させる事が出来た。これは近代国家最初の国際条約であるが、これにより神聖ローマ皇帝は[[プロテスタント]]諸侯の特権を大幅に認可し、ドイツ[[諸侯]]の自立権、[[オランダ]]([[ネーデルラント連邦共和国]])と[[スイス]]の独立を正式に認めてしまったため、事実上[[神聖ローマ帝国]]は滅亡してしまったに等しくなった。その上、戦勝国である[[フランス王国|フランス]]と[[スウェーデン]]に帝国内の領土の領有を認めさせられていた。この条約は、いわゆる'''神聖ローマ帝国の死亡診断書'''だったのである。この三十年戦争後の[[欧州]]の体制を[[ヴェストファーレン体制]]という。もっとも[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク家]]は維持する事には成功した。唯一、失態を犯したボヘミアにおいても[[プラハ]]は陥落しなかった為、ハプスブルク家の王位は保たれた。
 
1657年、50歳で死去した。1654年に長男でハンガリーとボヘミアの王位を継承していた[[ローマ王]][[フェルディナント4世 (ローマ王)|フェルディナント4世]]が死去していたため、皇位は翌1658年、その弟[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]が継いだ。
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