「アドルフ・アダン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
SieBot (会話 | 投稿記録)
m robot Adding: he:אדולף אדם
編集の要約なし
1行目:
[[Image:Adolphe Adam.jpg|thumb|right|175px|アドルフ・アダン]]
{{クラシック音楽}}
'''アドルフ・アダン'''または'''アドルフ=シャルル・アダン'''('''Adolphe Charles Adam''', [[1803年]][[7月24日]] - [[1856年]][[5月3日]])は[[フランス]]の舞台音楽の[[作曲家]]・[[音楽評論家]]。日本のバレエ業界では伝統的にアダムではなくアダンと書き表す。
 
== 生涯 ==
{{クラシック音楽}}
[[パリ]]に生まれる。父親は[[ピアニスト]]・音楽教師・作曲家。他人の作品を学ぶよりは即興演奏が好きな子供だった。父親からは音楽家になるよう望まれてはいなかった。[[1821年]]に[[パリ音楽院]]に入学し、[[オルガン]]演奏を[[フランソワ=アドリアン・ボイエルデュー]]に師事。20歳になるまでに[[パリ]]の劇団一座のために歌を書き、ジムナスト座の楽団指揮者や楽長も務めた。
 
8 ⟶ 10行目:
[[オペラ座]]の支配人と口論の末にアダンは、自ら出資し、莫大な借金を重ねて、[[1847年]]にパリで三つ目の歌劇場、テアトル・ナショナル座を開設した。だが翌年の[[1848年革命]]によって閉鎖に追い込まれ、目も眩むような借金だけが残った。一時期ジャーナリズムに戻って、窮地から逃れようとした。[[1849年]]から没年まで、パリ音楽院で教鞭を執っている。パリに没し、[[モンマルトル]]墓地に埋葬された。
 
== 評価 ==
こんにちでは、'''[[バレエ]]《[[ジゼル]]》'''([[1841年]])がとりわけ有名である。そのほかにもいくつかのバレエ音楽と39曲の[[オペラ]]を作曲し、'''《我もし王なりせば''Si j'étais roi'' 》'''(1852年)が[[歌劇]]における代表作と呼ばれている。[[クリスマス・キャロル]]《クリスマスの賛美歌''Cantique de Noël'' 》は、英語の題名'''《おお聖夜''O Holy Night'' 》'''によって国際的に有名であり、[[ラジオ]]の音楽番組で最初に放送された楽曲かもしれないと言われている[http://www.cyberhymnal.com]。
 
== 関連項目 ==
 
 
== 外部リンク ==