「カルロッタ・アグラエ・ドルレアンス」の版間の差分

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[[Image: Orl%C3%A9ans%2C_Charlotte-Agla%C3%A9.jpg|thumb|250px|right|カルロッタ・アグラエ・ディ・オルレアンス([[ピエール・ゴベール]]画、[[ヴェルサイユ宮殿]]所蔵)]]
'''カルロッタ・アグラエ・ディ・オルレアンス'''(Carlotta Aglae di Orleans, [[1700年]][[10月20日]] - [[1761年]][[1月19日]])は、[[モデナ公]][[フランチェスコ3世・デステ]]の妃。[[フランス語]]名シャルロット・アレー・ドルレアン(Charlotte Aglaé d'Orléans)。マドモワゼル・ド・ヴァロワ(Mademoiselle”(Mademoiselle de Blois)Valois, ヴァロワ令嬢)と呼ばれた。
 
[[オルレアン家|オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]][[フランソワーズ・マリー・ド・ブルボン]]([[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]と[[モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス|モンテスパン夫人]]の子)の四女として、[[パリ]]で生まれた。妹に[[スペイン]]王妃[[ルイーズ・エリザベート・ドルレアン|ルイーズ・エリザベート]]がいる。特別な美女というわけでなかったが、父親に最も可愛がられた。1717年頃、リシュリュー公([[リシュリュー]][[枢機卿]]の大甥)と恋仲になるが、当時摂政となっていた父フィリップの怒りを買い、投獄された。シャルロットは彼に幾度か面会に行き、父親には彼に結婚をあきらめさせたうえで放免してくれと頼んだ。この一件で、[[サルデーニャ王国|サルデーニャ]]王との縁組みは壊れてしまった。摂政は[[イングランド]]との同盟だけでなく、モデナとの同盟のため、娘に巨額の持参金をつけてモデナ公リナルド3世・デステの跡継ぎフランチェスコと結婚させた。2人には9子が生まれた。