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[[律令法]]においては「職制律」の疏において“公文謂在官文書”と定義され、また「公式令(くしきりょう)」と呼ばれる[[令]]が制定されて公文書の様式や手続が定められていた。
 
特に[[朝廷]]においては、特に毎年一定の時期に各地の[[国司]]から提出される[[大計帳]]・[[正税帳]]・[[調帳]]・[[朝集帳]]を'''四度公文'''(しどのくもん)と呼んでこの数字を確認する事で[[国司]]に対する監査を行うとともに、行政・財政の基本資料として重要視された。また、[[国衙]]においてはこれらの文書を作成するために公文所が設置され、文筆や計算に通じた人物を[[国司|目]]・[[史生]]と言った[[在庁官人]]に任命した。これを「公文目」・「公文史生」と呼んだ。
 
公家の[[政所]]や寺院の[[僧綱]]などにおいてもこれに倣った文書管理が行われた。当初は「開闔(かいごう)」・「出納(しゅつのう)」・「預(あずかり)」などと呼ばれていたが、次第に取扱う文書が多くなり訴訟なども担当するようになると、それらも「公文」と称せられる様になった。。また、[[鎌倉幕府]]の[[引付]]の書記担当者も「公文」と呼ばれて[[所務沙汰]]の文書の受付などを行った。
 
== 五山制度における公文(公帖) ==
また、[[足利将軍家]]が発給した[[五山]][[十刹]]などの[[住持]]を任命する辞令を「'''公文'''」もしくは「'''公帖'''(こうじょう)」と呼んだ。五山制度は[[鎌倉幕府]]にも存在しており公文(公帖)が出されていたが、同制度が整備されたのは、室町幕府初代[[征夷大将軍|将軍]][[足利尊氏]]が[[禅宗]]保護に積極的であったことに由来する。従って公文(公帖)は将軍個人直々の命令書である[[御教書]]もしくは[[御内書]]形式(手続としては、僧侶代表([[鹿苑僧録]]・[[蔭涼職]])から出された名簿を参考に将軍が選任し、将軍の指示に従って[[公文奉行]]が本文を執筆し、将軍が内容を確認の上で署名捺印して僧侶代表に発給してそれを被任命者に授与した)で発給されるのが一般的であり、その発給のために献上された[[礼銭]]が[[室町幕府]]の重要な財政収入になったのみでなく、[[織田信長]]によって[[京都]]を追放された[[足利義昭]]の追放中の活動資金にもなったと言われている(「五山十刹」の住持の任免権は室町幕府ではなく、足利将軍個人にあると考えられていたため)。なお、[[鎌倉五山]]などの関東の寺院に関する公文(公帖)は[[鎌倉府]]に発給権があり、地方の寺院については現地の[[守護]]が将軍の代理として発給した例も存在している。
 
その後、足利義昭の出家による引退後は代わって[[豊臣政権]]や[[江戸幕府]]が公文(公帖)が発給していたが、[[東福寺]]は[[九条家]]・[[一条家]]のいずれかが、[[天竜寺]]・[[大徳寺]]・[[南禅寺]]などは[[院宣]]や[[綸旨]]によって出される事もあった。
 
== 荘園における公文 ==
荘園においては国衙や[[本所]]に対して提出する文書を作成する者を「'''公文'''」と呼んだが、後には文書を担当する者以外に対しても広く使われて荘園の下級荘官の役職として公文と呼ばれて[[開発領主]]が任命されて子孫に継承されていった。荘園の公文は必ずしも文書を担当する者以外にも村々における責任者が任じられている場合も多く、[[領家]]・[[地頭]]・[[農民]]間において対立が生じるとその間に挟まれて苦慮する立場でもあった。
 
なお、[[検注]]に際して国衙側の公文が持つ土地台帳と荘園側の公文が持つ台帳を勘合する際の事務経費を'''公文勘料'''(くもんかんりょう)と呼び、検注時に農民に対して賦課されて、実際の経費及び実務に当たった荘園側の公文に対する[[得分]](報酬)として宛がわれた。
 
[[category:日本の制度史|くもん]]