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m {{WTA}}
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m シングルス最高位、WTAツアーガイドの本で確認
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|全米オープン=3回戦(1982-84・89)
|優勝回数=
|シングルス最高=37 (?)
|ダブルス最高=?位
}}
'''アンドレア・テメシュバリ'''('''Andrea Temesvari''', [[1966年]][[4月26日]] - )は、[[ハンガリー]]・[[ブダペスト]]出身の元女子プロ[[テニス]]選手。[[1986年]]の[[全仏オープン]]女子ダブルスで、[[マルチナ・ナブラチロワ]]とペアを組んで優勝した。若き日には、アイドル性のある愛らしい天才少女としても高い人気を持っていた。[[WTA]]ツアーでシングルス5勝、ダブルスで[[1986年全仏オープンテニス|1986年全仏オープン]]を含む6勝を挙げた。シングルス自己最高ランキングは37位。<!--??-->身長182cm、体重61kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。
 
アンドレア・テメシュバリは9歳から[[テニス]]を始め、[[1981年]]の[[1981年全仏オープンテニス|全仏オープン]]で[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]にデビューした。[[1982年]]に[[女子テニス協会]]の「最も進歩した選手賞」(Most Improved Player Award)を受賞。[[1983年]]に「[[ローマ・マスターズ|イタリアン・オープン]]」と「全米クレーコート選手権」の2大会で優勝し、初めて世界ランキングトップ10位以内に入る。この年は[[1983年全仏オープンテニス|全仏オープン]]で、[[ハナ・マンドリコワ]]との4回戦に進出した。[[1984年]]にテメシュバリは[[1984年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]と(当時は年末開催で、女子シングルスも6回戦制だった)[[1984年全豪オープンテニス|全豪オープン]]でベスト16に入ったが、4大大会女子シングルスではベスト8以上に勝ち進むことができなかった。[[1986年]]の[[1986年全仏オープンテニス|全仏オープン]]で、テメシュバリは女子ダブルスで[[マルチナ・ナブラチロワ]]とペアを組み、決勝で[[シュテフィ・グラフ]]&[[ガブリエラ・サバティーニ]]組を 6-1, 6-2 のストレートで破って優勝した。ところが、[[1987年]]初頭からテメシュバリは肩と足首の故障に悩まされ、1年8ヶ月の戦線離脱を余儀なくされる。そのため、一時期は早熟少女の“燃え尽き症候群”を疑われたこともあった。
 
[[1989年]]からテメシュバリは女子テニスツアーに復帰を果たし、久々の4大大会出場となった[[1989年全豪オープンテニス|1989年全豪オープン]]にも3回戦まで勝ち進んだ。同年の8月第3週に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニュージャージー州]]で行われた「ユナイテッド・ジャージー」大会では、当時世界ランキング1位に君臨していた[[シュテフィ・グラフ]]との決勝戦まで進み、[[1989年全米オープンテニス|全米オープン]]でも3回戦に進出している。復帰後のテメシュバリは[[1996年]]、ツアーでシングルス優勝はできなかったが、ダブルスで3つタイトルを加え、[[1996年全仏オープンテニス|1996年全仏オープン]]まで4大大会の本戦に出場を続けた。同年の[[アトランタオリンピックにおけるテニス競技|アトランタ五輪]]にも[[ハンガリー]]代表選手として出場した。[[1997年]]6月に31歳で現役を引退。テメシュバリは[[2003年]]に女子テニス国別対抗戦・[[フェドカップ]]の[[ハンガリー]]代表監督を務め、チームを「ワールドグループ・プレーオフ」まで導いた。
== 関連項目 ==
* [[テニス]]
== 外部リンク ==
* {{WTA|id=200014|name=アンドレア・テメシュバリ}}
* [http://www.fedcup.com/teams/player.asp?player=20000981 フェデレーションカップ成績表]
== 参考文献 ==
* WTAツアー公式メディア・ガイド、1996年版 (ツアーサイトから、伝記情報の一部が消滅したため)
[[Category:ハンガリーのテニス選手|てめしゆはり あんとれあ]]
[[Category:1966年生|てめしゆはり あんとれあ]]