「由良国繁」の版間の差分

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妻ではなく母
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由良氏の第九代当主で、[[1578年]]の父の死の前後くらいから家督を継いでいたという。[[1584年]]、[[後北条氏|北条氏]]の命により、[[上野国]][[新田金山城|金山城]]から[[桐生城]]に移ることとなった。
 
[[1590年]]の[[豊臣秀吉]]の[[小田原攻め]]では、国繁は豊臣側に与しようとしたが、北条氏に脅迫されて[[小田原城]]に籠もることを余儀なくされた。しかし、嫡男の由良貞繁と彼の母(赤井氏・'''妙印尼'''輝子・[[由良成繁]]室)が[[豊臣氏]]に与して功を挙げたことにより、北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉の家臣として仕えた。戦後、妙印尼は豊臣秀吉から常陸国牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ
 
秀吉の死後、[[徳川家康]]に仕えた。[[関が原の合戦]]に際しては、[[江戸城]]の守備を命じられた。戦後、下総国相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。