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'''璽宇'''(じう)とは、[[第二次世界大戦|第2次大戦]]中にできた[[宗教団体]]である。終戦直後は一世を風靡した。「'''璽宇教'''」という表現もあるが正しくない。
#REDIRECT [[璽光尊]]
 
==沿革==
鉱山事業家の峰村恭平が主宰する「'''篁道大教'''」という神道系の団体が母体となっている。篁道大教は「教業一致」を掲げ、鉱山事業を通じて教団の資金を捻出し、また「御神示」によって経営方針を決定していた。
 
そこに[[大本]]系列の心霊研究団体[[菊花会]]と[[世界紅卍字会]]のグループが合流したことで、1941年(昭和16年)に「璽宇」と改めた。[[呉清源]]は紅卍字会のグループに属していた。
 
そして、長岡良子(後の[[璽光尊]])グループも璽宇に合流した。長岡グループの信者のなかに鉱山経営者がおり、同業者である峰村恭平を紹介したことがきっかけであった。
 
峰村恭平はやがて病気を患うようになり、また鉱山経営も行き詰まったことで、教団に対する熱意を失っていった。一方、長岡良子が頭角を表し、信者の信望を集めるようになった。
 
1945年(昭和20年)5月25日の[[東京大空襲]]で、璽宇本部として使用していた峰村邸が焼失したことで、峰村恭平は別荘がある山中湖畔に疎開することになり、教団から身を引くことになった。これにより璽宇の指導者は事実上、長岡良子となった。
 
戦後の1945年(昭和20年)11月15日に、璽宇は発足式を開催し、再スタートした。
 
しかし翌年、[[昭和天皇]]が[[人間宣言]]を行ったことで、璽宇は一大転機を迎えることになった。
 
長岡良子は「天皇の神性」は自分に乗り移ったと宣言、「'''天璽照妙光良姫皇尊'''(あまつしるすてるたえひかりながひめのすめらみこと)」(略称:'''璽光尊''')を名乗り、璽光尊の住まいを「'''璽宇皇居'''」と称した。
 
その頃には「璽宇皇居」を[[石川県]][[金沢市]]に「遷宮」し、天変地異の預言を盛んに喧伝した。1947年(昭和22年)1月21日に警察は「璽宇皇居」を急襲、璽光尊と信者の[[双葉山定次|双葉山]]を食糧管理法違反で逮捕した。
 
この事件を境に教勢は一気に衰え、呉清源や双葉山も璽宇を去った。「璽宇皇居」は各地を転々としたあと、最終的に[[神奈川県]][[横浜市]]に「遷宮」した。現在も教団自体は存在するが、ほとんど勢力はない。
 
==教団の世界観==
璽宇では、人間は四つに分類されるという「人間四段階説」をとっていた。
;天責者
:璽宇が掲げる「世直し」を助ける存在である。全世界で30人いるとされている。
;地責者
:天責者を助ける存在である。全世界で3000人いるとされている。
;邪霊
:一般人のことで、魔霊に惑わされやすい存在とされている。
;魔霊
:諸悪の根源といえる存在で、全世界で3004'''匹'''いるとされている。璽宇では、その内の数'''匹'''を飼い馴らすことで、社会に害悪を流すのを防いでいるとしており、信者の何人かは「魔霊」とされている。
 
==擬似国家==
璽宇では璽光尊の住まいを「璽宇皇居」と称したり、「霊寿」という独自の元号を定めたり、「璽宇内閣」を組閣するなど、後の[[オウム真理教]]の[[省庁制 (オウム真理教)|省庁制]]を彷彿させるような行動をとっていた。
 
==教団の宗教活動==
璽宇では布教を禁止していた。そんなことをしなくても、最終的には他宗教全てが璽宇に帰依するものという考えからである。同時期に有名になった[[天照皇大神宮教]]と比較して教勢が振るわないのは、この「布教禁止」に由来している。
 
また、教団の運営費は信者の自発的な寄附に委ねられており、寄附の強要はもちろん、勧誘すらしていない。そういう点で、オウム真理教とは著しく異なっている。
 
==関連項目==
*[[教団]]
#REDIRECT *[[璽光尊]]
*[[天照皇大神宮教]]
*[[オウム真理教]]([[省庁制 (オウム真理教)|省庁制]])
 
[[Category:新宗教|しう]]