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[[Image:Gottfried von Bouillon (Hofkirche Innsbruck) 2006 0931.jpg|thumb|[[インスブルック]]にあるブロンズ像]]
'''ゴドフロワ・ド・ブイヨン'''(Godefroy(Godefroy de Bouillon, [[1060年]]頃 - [[1100年]][[7月18日]])は、[[第1回十字軍]]の指導者の1人で、[[エルサレム]]の初代聖墓守護者となる。[[ロレーヌ公|ロートリンゲン公]]。
 
ゴドフロワは[[ブローニュ]]伯ユースタシュ2世の長子として生まれたが、伯父のロートリンゲン公ゴドフロワ4世(ハンチバック)の跡継ぎとされた。1076年にゴドフロワ4世は亡くなったが、[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]は、当初ゴドフロワ・ド・ブイヨンの相続を認めず、1082年になってようやく承認されている。
 
1096年に[[第1回十字軍]]の勧誘に応じ、弟のブローニュ伯ユースタシュ、[[ボードゥアン1世 (エルサレム王)|ボードゥアン・ド・ブローニュ]]と共に参加した。
 
[[アンティオキア]]攻略後に[[ボエモン1世 (アンティオキア公)|ボエモン]]が現地に残留した後は、[[トゥールーズ]]伯[[レーモン4世 (トゥールーズ伯)|レーモン]]と共に1099年にエルサレムの攻略に成功する。レーモンが[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]を得ることを望んだため、ゴドフロワが王に選出されたが、[[イエス・キリスト|キリスト]]が命を落とした場所の王と呼ばれることを嫌い、聖墓守護者を名乗った。
 
同年、エルサレム奪回にやってきたエジプトの[[ファーティマ朝]]軍を[[アスカロン]]で破ったが、レーモンとの仲たがいのためアスカロンを奪取することはできなかった。また、エルサレム総大司教となったダゴベルトは、エルサレムを[[教皇領]]とすることを望んでおり対立した。結局、ゴドフロワがエジプトを奪って王国を作った後にエルサレムを教皇領とすることで話はついたが、エジプト侵攻を計画中の1100年12月に亡くなった。弟で[[エデッサ伯国|エデッサ伯]]になっていたボードゥアンが跡を継ぎ、[[エルサレム王国|エルサレム王]]を名乗った。
 
ゴドフロワは死後英雄化され、[[十字軍]]の最高指導者、最も優れた戦士として[[吟遊詩人]]の物語にされ、[[リヒャルト・ワーグナー|ワグナー]]の歌劇[[ローエングリン]]で知られる白鳥の騎士の子孫とされたりしたが、実像は十字軍の指導者の1人に過ぎず、ボエモン、トゥールーズ伯レーモン、教皇使節アデマールが中心人物だったといって良い。
 
[[Category:フランス史の人物|ふいよん]]