「マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)」の版間の差分

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[[Image画像:Dagmar 1864.jpg|thumb|220px|マリア・フョードロヴナ([[1864年]])]]
'''マリア・フョードロヴナ'''(マリーヤ・~;[[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Мария Фёдоровна}}'''<small>マリーヤ・フョーダラヴナ</small> / Maria Fyodorovna、[[1847年]][[11月26日]] - [[1928年]][[10月13日]])は、[[デンマーク]]王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]と王妃[[ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル|ルイーゼ]]の次女で、[[ロシア帝国|ロシア]]皇帝[[アレクサンドル3世]]の[[皇后]]である。[[デンマーク語|デンマーク]]名は'''マリー・ソフィー・フレデリケ・ダグマール'''('''Marie Sophie Frederikke Dagmar''')であった。'''ミニー'''の愛称で呼ばれた。姉に[[イギリス]]王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の妃[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]、妹に[[ハノーファー王国]]の元王太子[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王太子)|エルンスト・アウグスト]]の妃[[ティーラ・フォン・デーネマルク|ティーラ]]がいる。
 
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== ロシア皇太子妃 ==
[[Image画像:Kramskoy Alexander III.jpg|right||thumb|140px|マリアの夫アレクサンドル3世]]
1866年9月1日にミニーはコペンハーゲンから[[サンクトペテルブルク]]に向けて出発した。この時、ミニーを見送るデンマーク群衆の中に[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン]]がいた。彼はミニーを「慈悲深い心の清らかな王女」と評した。
 
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== ロシア皇后 ==
[[画像:Image:Maria Feodorovna by Kramskoj.jpg|thumb|120px|戴冠式のマリア]]
[[画像:Alexandra; Empress of India; Queen of Great Brittain, Princess of Denmark.jpg|thumb|120px|left|マリア皇后の姉アレクサンドラ王妃]]
[[画像:Image:Daughters of King Christian IX -2 -cropped.JPG|thumb|120px|左からヴィクトリア王女、アレクサンドラ王妃、マリア皇后]]
1883年5月27日にモスクワの[[クレムリン]]で重々しい警備の中で戴冠式がおこなわれ、夫アレクサンドルがロシア皇帝[[アレクサンドル3世]]として即位し、マリアは皇后となった。ロシア国民は「あなたは本当の皇后陛下です」とマリアを敬慕した。アレクサンドル3世の即位後、反帝政派の運動者は帝国内各地の都市に雲隠れしたため、ロシア国内の政情はやや安定した。
[[ニコライ2世|ニコライ]]皇太子がヘッセン大公女アレクサンドラとの結婚を両親である皇后マリアと皇帝[[アレクサンドル3世]]に願い出た時、2人は反対した。アレクサンドラの非社交的な性格もヒステリーを起こす事も知っていたため、未来のロシア皇后には不適格だと思っていたからである。またマリアは皇太子の妻に[[ベルギー]]、[[オランダ]]などの王室から迎えたかった。
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== ロシア皇太后 ==
[[Image画像:Alexandra alix.jpg|thumb|120px|マリア皇太后と不仲だったアレクサンドラ皇后(1901年)]]
1894年11月1日、アレクサンドル3世が49歳で崩御したため、マリアとアレクサンドル3世の長男ニコライが[[ニコライ2世]]としてロシア皇帝に即位し、マリアは皇太后になった。
 
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== ロシア革命 ==
[[Image画像:Nicholas_II_with_St_Vladimir_order.jpg|120px|thumb|マリアの息子ニコライ2世]]
[[1917年]]に[[ロシア革命]]が勃発すると、多くの皇族・貴族が迫害される中、マリアと娘一家、一部の皇族・貴族は[[クリミア半島]]の[[ヤルタ]]に幽閉された。妹が幽閉されている事を知った姉アレクサンドラがマリアとその一家の救出に奔走し、甥[[ジョージ5世_(イギリス王)|ジョージ5世]]も戦艦[[マールバラ_(戦艦)|マールバラ]]を差し向けて、皇太后マリアと娘一家らを、クリミアから[[黒海]]を経て救い出した。
 
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[[2005年]]、デンマーク・[[ロシア]]両政府の合意により、マリアの棺をロシアへ運ぶことが決定した。翌2006年、[[ロスキレ大聖堂]]に葬られていたマリアの棺は、[[サンクトペテルブルク]]の夫の隣に改葬された。
 
[[画像:Image:Alexander-Maria.jpg||right120px|thumb|マリアと[[アレクサンドル3世]]]]
[[画像:RomanovGreatDuchesses.jpeg|thumb|220px|革命で犠牲となったアレクサンドラ皇后と4人の孫の皇女(後列左から[[タチアナ皇女]]、[[オリガ皇女|オリガ]]、[[アナスタシア皇女|アナスタシア]]、[[マリア皇女|マリア]])]]
== 補記 ==
*[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国]]を巡って故国デンマークと[[ドイツ]]が争ったことから、生涯を通じてドイツ嫌いだった。
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== 子女 ==
[[画像:Image:Alexander-Maria.jpg||right120px|thumb|マリアと[[アレクサンドル3世]]]]
*[[ニコライ2世]](1868年 - 1918年)
*アレクサンドル(1869年 - 1870年)
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*[[ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公|ミハイル]](1878年 - 1918年)
*[[オリガ・アレクサンドロヴナ|オリガ]](1882年 - 1960年)
 
[[画像:RomanovGreatDuchesses.jpeg|thumb|220px|革命で犠牲となったアレクサンドラ皇后と4人の孫の皇女(後列左から[[タチアナ皇女]]、[[オリガ皇女|オリガ]]、[[アナスタシア皇女|アナスタシア]]、[[マリア皇女|マリア]])]]
 
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