「第二次辺境伯戦争」の版間の差分

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'''第二次辺境伯戦争'''('''Zweite Markgrafenkrieg'''、単に'''辺境伯戦争''' ('''Markgrafenkrieg''')、あるいは'''Bundesständischer Krieg'''とも呼ばれる)は、[[1552年]]から[[1555年]]に[[神聖ローマ帝国]]内で戦われた戦争。当初は、[[ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯]][[アルブレヒト・アルキビアデス]]と[[ニュルンベルク]]市との戦闘であったが、アルブレヒト・アルキビアデスが[[パッサウの和約]]の受け容れを拒否したことから戦渦が拡大した。アルブレヒト・アルキビアデスが行った侵略、略奪行為により、帝国内、特に[[フランケン]]地方]]の多くの集落や城が破壊された。被害は他の地方、たとえば、[[マインツ]]、[[ヴォルムス]]、[[オッペンハイム]]、[[メス (都市)|メス]]、[[ヴェルダン]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]、[[シュパイアー]]にも及んだ。
* 1552年6月19日: ニュルンベルクがアルブレヒト・アルキビアデスに降伏。[[フォルヒハイム]]、[[バンベルク]]を侵略。
* 1553年7月9日: [[ジーファースハウゼンの戦い]]: [[ザクセン選帝侯]][[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|モーリッツ]]と[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公]][[ハインリヒ2世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ハインリヒ2世]]がアルブレヒト=アルキビアデスに勝利したが、モーリッツはこの戦いで戦死、ブラウンシュヴァイク公も2人の息子を失った。