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[[慶長]]5年([[1600年]])[[関ヶ原の戦い]]の後、上杉氏は西軍に加担した罪により120万石から30万石に削減され[[米沢城]]に封じ込められた。代わって、庄内地方を支配したのは[[山形城]]を本城とする[[最上義光]]である。義光は24万石から57万石を領有する大[[大名]]となった。義光は庄内地方の拠点として大宝寺城、東禅寺城、尾浦城などを整備拡張した。慶長8年([[1603年]])各城の整備が整うと、[[酒田市|酒田浜]]に大亀が上がったことを祝し東禅寺城を[[亀ヶ崎城]]と改称した。この時に、亀ヶ崎に対し大宝寺城も鶴ヶ岡城と改称されたのである。また同時に尾浦城も大山城と改称された。最上氏は3代[[最上義俊|義俊]]の[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])に、[[お家騒動]](最上騒動)があり、[[改易]]となった。
 
旧最上領は分割され、庄内地方には[[信濃国]][[松代城]]より[[譜代大名]]の[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]が入った。忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め、亀ヶ崎城を支城とした。忠勝は入封すると、簡素な造りであった鶴ヶ岡城を近世城郭へと大改修に着手した。二の丸、三の丸を拡充し、[[城下町]]の整備を行った。庄内藩の本城としての偉容が完成したのは、3代[[酒井忠義 (出羽国庄内藩主)|忠義]]の時であり54年もの歳月が費やされた。本丸は一部に石垣が使用されたが大半が土塁であり、幅約20mの水堀に囲まれている。本丸内には御殿、北西隅と東南隅にに二重櫓、多聞櫓、長塀、門などが設けられた。[[宝永]]元年([[1704年]])には、鬼門である東北隅に稲荷神社が勧進され、毎年の初午祭礼の際には町人も城内に入って参詣することできた。
[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])9代[[酒井忠徳|忠徳]]は藩校「致道館」を設けた、文化13年([[1816年]])には、現在地である三の丸に移転された。[[文政]]7年([[1824年]])柿葺であった城内の建物は、全て瓦葺となった。
[[天保]]11年([[1840年]])[[江戸幕府|幕府]]より三方所替の命が下り、酒井氏は越後国[[長岡城]]への移封を命じられた。しかし、幕府に対し領民の抵抗運動が起こり命令は取り下げられた。[[慶応]]4年([[1868年]])1月より始まった[[戊辰戦争]]では[[奥羽越列藩同盟]]にて[[会津藩]]と共に最強硬派として官軍と戦い、会津藩が降伏した後、[[明治]]と改元された9月25日まで徹底抗戦を行った。