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'''細川清氏'''(ほそかわきようじ、? - [[貞治]]元年 / [[正平]]17年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[1362年]][[8月14日]]))は日本の[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の武将で、[[室町幕府]]の執事である。父は[[細川和氏]]。兄弟に[[細川頼和]]、[[細川将氏]]、[[細川家氏]]。子は[[細川正氏]]。名は元氏で、後に清氏と名乗る。左近将監。伊予守、相模守。
 
== 伝記 ==
[[三河国]]細川郷(現在の[[愛知県]][[岡崎市]])に生まれる。[[足利氏]]の一門である[[細川氏]]は、[[南朝 (日本)|南朝]]との戦いでは北朝を擁する足利幕府に従い、足利家の内紛である[[観応の擾乱]]では[[征夷大将軍|将軍]][[足利尊氏]]に属する。父の和氏は[[1342年]]([[興国]]3年 / [[康永]]元年)に死去し、清氏は叔父の[[細川頼春]]に従い、南朝や[[足利直義]]派と戦う。
 
52[[1352]](正平7年 / [[文和]]元年)に[[伊賀国]]の守護となり、翌53[[1353年]](正平8年 / 文和26)6月に[[足利直冬]]が[[京都]]へ侵攻した際には殿を務め、近江の塩津において[[後光厳天皇]]を背負って山越えをしたと言われる。54[[1354]](正平9年 / 文和3年)9月には[[若狭国]]守護、[[評定衆]]、引付頭人に加わり、相模守となる。翌55[[1355]](正平10年 / 文和4年)の直冬勢の京都侵攻においては本拠の[[東寺]]を破り、58[[1358]](正平13年 / [[延文]]3年)には、2代将軍[[足利義詮]]から執事(後の[[管領]]の初見)に任命され、幕政の中枢へ進出する。59[[1359年]](正平14年 / 延文412)12月には河内の南朝勢掃討を立案し、[[鎌倉]]から上洛した[[関東管領]]の[[畠山国清]]とともに出陣する。
 
清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り、分国の若狭において[[半済]]を強行するなど強引な行動も多く、幕政では分国を巡る争いのあった[[斯波氏]]や、同格の[[仁木義長]]らの政敵も多かった。[[1360年]]([[正平]]15年 /[[延文]]5年)[[5月 (旧暦)|5月]]、清氏と国清は南朝掃討のため河内へ出陣するが、兵を返して京都へ迫り、義長を排斥することに成功。
 
清氏は幕政の実権を握ったが、国清の鎌倉帰還や南朝勢力の進出で反対派は清氏打倒を計画し、[[1361年]](正平16年/[[康安]]元年)9月には、清氏の留守中に将軍義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぎ、清氏は弟の頼和、信氏らとともに分国の若狭へ落ち延びる。古典『[[太平記]]』では、清氏失脚の首謀者は[[佐々木道誉]]であり、清氏に野心があったと記されている。[[今川貞世]](了俊)の記した『[[難太平記]]』では清氏は無実で、道誉らの策謀があったと推測している。
 
若狭へ逃れた清氏は無実を訴えるが、[[摂津国]]で南朝方に属する。12月には[[楠木正儀]]・[[石塔頼房]]らと[[京都]]を攻略するが幕府の反撃に遭い、翌621362年(正平17年 /[[ 康安]]2年)には細川氏の[[国人]]層が強固であった[[阿波国]]へ逃れる。清氏は讃岐へ移り、義詮から清氏追討を命じられた阿波守護で、清氏の従弟にあたる[[細川頼之]]に対しては、[[小豆島]]の佐々木信胤や塩飽諸島の塩飽[[水軍]]などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも、現[[香川県]][[綾歌郡]][[宇多津町]]、[[坂出市]])を本拠に宇多津の頼之勢と戦う。古典『太平記』によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる。なお、清氏の実子である正氏は、その後も南朝に属して抵抗する。
 
坂出市には、清氏はじめ被官36名が埋葬された「三十六」や、「細川将軍戦跡碑」などがある。
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*[[南北朝時代 (日本)の人物一覧]]
*[[細川氏]]
 
 
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