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文に長けていたと伝えられているが、[[壬申の乱]]で敗れた[[弘文天皇|大友皇子]]の皇子であるため、朝廷内でも当初は評判が悪かったようである。
『[[懐風藻]]』によると696年(持統10年)の[[高市皇子]]の死去の後、[[持統天皇]]が数ある[[天武天皇]]の皇子達を退け孫の軽皇子(後の[[文武天皇]])を皇太子にしようとした際、それに
葛野王は後に正四位の位を授けられ、式部卿の地位に任ぜられた。この時年齢37歳とあるが、薨去時の年齢が誤って伝えられたとする考えが一般的である。父[[弘文天皇]]は母方の祖父、天武天皇との皇位争いに敗れて自殺、母[[十市皇女]]も早世(自殺・暗殺説もある。)し、自身も複雑な血統の中、それなりの出世は果たすも、結局早世してしまった。子孫も孫の三船以降は天武系から天智系への皇統移行とほぼ同時に歴史に埋もれてしまう事となる。葛野王は決して幸せな人生を送ったとは言いがたいが、彼なりに必死にその時代を生き抜こうとしたことが窺える逸話である。
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