「アンリ・ギザン」の版間の差分

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スイス西部の[[ヴォー州]]の[[フランス]]系の医師の家に生まれたアンリ・ギザンは、幼くして母を亡くしたものの、父親の愛情を受けて育った。やがて[[ローザンヌ大学]]に進学したものの、進路に迷った末にフランスや[[ドイツ]]に農業技術の研究のために留学した。やがて兵役に就いた事をきっかけに軍の仕事に興味を持って職業軍人に転じて主として砲兵畑にて活躍、[[第一次世界大戦]]の頃には陸軍中央学校の教官、あるいは軍の作戦司令部の参謀として、近代戦の研究に励んだ。[[1932年]]には軍団長[[大佐]](平時のスイスにおいては将官は設けられないため、大佐が最上位となる)兼国家国防委員会委員となり、実質上の武官のトップの地位に就いた。
 
[[1939年]]8月、[[ナチス・ドイツ]]と[[ポーランド]]の関係が急速に悪化して戦争が避けられない情勢となると、[[ジュゼッペ・モッタ]]ら当時の連邦政府指導部は連邦議会とともに8月30日に武装中立と非常事態を宣言、政府と議会の代表からなる委員会に全権が委任された。委員会は少数派のフランス系住民出身ではあるが、実績と信頼のあるギザンを軍の最高司令官を選出して、臨戦態勢を整えた。ギザンは万が一にドイツ軍あるいは連合国軍がスイスに侵攻してきた場合には山間部を走る国境の交通網を全面的に破壊した上、平野部を放棄して[[アルプス山脈]]に要塞を築いて徹底抗戦する計画を立案した。最高43万人の[[ミリシア|兵員]]が動員されてスイス国内は「ハリネズミ」と評されるほどの一大防衛体制が取られた。
 
だが、翌年に入るとモッタが急死し、続いて[[イタリア]]がナチス・ドイツ側に参戦し、[[フランス]]が降伏した([[オーストリア]]は既にドイツに併合されている)ため、スイスの国境は全てドイツ側陣営と接する事になった。しかも、多数派であるドイツ系住民の中にはドイツ側への参戦を求める声が高まり、中立政策は動揺を来たした。
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