「アレクサンドル・ベンケンドルフ」の版間の差分

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1844年レバル(現在の[[エストニア]]の首都、[[タリン]])にバルト・ドイツ人貴族の家に生まれる。2歳下の弟に軍人、外交官の[[コンスタンチン・ベンケンドルフ|コンスタンチン・クリストフォロヴィッチ・ベンケンドルフ]]([[コンスタンチン・フォン・ベンケンドルフ]])[[w:Konstantin von Benckendorff]]、妹に[[ロンドン]]、[[パリ]]社交界で有名な貴婦人であった[[ドロテア・フォン・リーヴェン]](リーフェン)夫人[[w:Dorothea Lieven]]がいる。
 
[[1806年]]以降の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]との戦いに出征し、[[1812年]]ナポレオンが[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]を開始するとベリシ(ヴェリシ、[[w:Velizh]])で[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]と対峙し、フランス軍の将軍3名を捕虜にするなどの戦果を挙げた。大陸軍が[[モスクワ]]から退却した後、モスクワ駐留軍司令官に任命される。さらにナポレオンを追撃すべくヨーロッパ派遣軍に参加し、テンペルベルクTempelbergでフランス軍を撃破し、[[ベルリン]]に入城した。さらに[[ライプチヒ]]での戦闘と、[[オランダ]]からでフランス軍を掃討し名を上げた。
 
[[1821年]]皇帝アレクサンドル1世に対して、[[デカブリスト]]について警告を言上したが、皇帝は意に介さなかった。[[1825年]]アレクサンドル1世の崩御後、帝位をめぐり[[コンスタンチン大公]]と[[ニコライ1世]]の間で混乱、空隙をついて[[デカブリストの乱]]が起こる。反乱はニコライ1世によってただちに鎮圧されるが、ベンケンドルフは乱後に設置された調査委員会に所属し、[[憲兵隊]]および[[秘密警察|政治秘密警察]]として[[皇帝官房第三部|皇帝直属官房第三部]]の創設について答申した。ベンケンドルフの提案は、ニコライ1世によって容れられ、[[1826年]]ベンケンドルフは憲兵隊長兼皇帝官房第三部初代長官に任命される。ベンケンドルフは第三部を通じて、[[検閲]]を強化しそれは、[[文学]]作品や[[演劇]]にまで及んだ。[[アレクサンドル・ゲルツェン]]は、回想録で多くの無実の者たちが犠牲となったか、ベンケンドルフを糾弾している。
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